徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

1995年9月4日・沖縄

2010-10-15 03:00:23 | Music


一部に「変節した」と言われるのは仕方がない。
喜納昌吉は、ある良心を背負って沖縄を託されてしまったのだから。
しかし、40年近く「同じ歌」を歌い続けてきた人間が1、2年で変節してしまうものなのだろうか。
確かに顔は変わったかもしれない。
確かに太った。
政治が彼を太らせたのだろうか(いや、それは年齢のせいだと思うが)。
しかし2009年のアースデイのライブを観て、顔よりもトークが変わったんじゃないかと思った。
確かにあれは政治家風のトークだ。

20年前のライブビデオと比較するのは酷な話だが、「ニライカナイ」の中で、彼は実に漲るような確信に満ちた表情で、オーディエンスに優しく語りかけた。
<まずは東京の無意識を破壊すること。何も怖いものではない。東京の下には莫大なるスピリットの実がある>
これは現在も間違っていない認識だと思う。
そう言った喜納昌吉は「踊れ」とは言わなかったが、チャンプルーズはソリッドでタイトな「ハイサイおじさん」でオーディエンスを躍らせ、熱狂させた。
しかし政治の世界の人間や野暮な連中には、残念ながらこんな言葉は通じない。
<東京の無意識>の中で、楽器と唄という武器のない喜納昌吉は徒手空拳で闘わなければならない。
東京が変わらなきゃ沖縄が変わるわけがない。
オレらはそれぞれがそれぞれの場所で、同じ目的で闘うべきなのだ(アケミの受け売り風だけど)。

喜納昌吉を批判している多くのおじさん、おばさんは同じ時代を過ごしてきた人たちだからこそ、尚更厳しい見方をしているのかもしれない。しかしステージの上で完全武装の喜納昌吉と同じ闘い方を、そのまま政治の世界で求めるのは、それはそれで酷だと思うのだ。少なくとも何も成し遂げていない彼の足を引っ張るようなことはすべきではないんじゃないか。

彼は闘ってると思うけどな。それは葛藤なのかもしれないけれども。