昨日の朝方にようやく「把握」したライター女史と非モテタイムズ編集長とケツダンポトフのそらのさん、三つ巴トラブルの件。
「francesco3氏」と「めがねおう氏」の炎上ツイートまとめ
発端の非モテタイムズ編集長氏の主婦ライター氏への一方的な罵倒・中傷はそもそも議論にすらなっていないので論外なんだけれども、ここに来て「炎上マーケティング」が指摘され始めている(これとかこれ)。これ、確信犯としてやっているのならば本当に怖い話である。他人の存在を完全に商売道具にしか見ていないわけだから、メンタリティとしてはオレオレ詐欺と変わらんよね。何だ?炎上マーケティングって。
ということで、非モテとライター女史のトラブルに関しては議論の余地はない「人権」以前の問題でもある。これを「議論」だとか、「どっちもどっち」だとか、さらにはライター女史を「クレーマー」扱いできる人が心理がわからない。
問題は生々しいやりとりの余韻が残っている中で、火に油を注いだダダ漏れライブだ。
ケツダンポトフの「そらの」とかいう女の子はツイートを読む限り、何の当事者(加害者)意識もないし、自分が批判されている意味すら理解していないだろう。彼女自身はどこまで行っても無邪気な「広報」さんである。さらに今日トップページに掲載された、彼女のボスが書いたらしき放送中止を伝える謝罪文も何だかまるで他人事で、事態を把握していないような、通り一遍の謝罪文にしか読めない。
「オレ(私)だって表現していいはずだ」「メディアを持っていいはずだ」、さらには「私たちはメディアだ」というのは今の時代の気分としては正しいとは思うが、要するに彼らはやっぱり無責任な「素人」なのだと思う。
既存メディアの「編集」に批判が集まり、「ノー編集のダダ漏れ」が過剰に持て囃される背景には、やっぱりネットの「編集」という発想のなさがあると思うのだ。
ネットが世間に溢れるほどいる素人の名文家を生み出しているのは間違いない。一応プロライターを名乗っている方々よりも遥かに論理的で、構成も巧みな素人ライターの方々は数多い。
しかしそれはプロの世界と同じで、玉石混合のパイが大きくなったということでしかない。
例えばネットでサッカーブログを書く人は数多いが、分析は丁寧で見事だけれども、文章や構成がいまいちこなれてないという人は少なくない。大事なのは編集者なんだと思う。彼らに編集者が適切にアドバイスすればもっと素晴らしいライターになる(はず)。
しかしブログレベルでそんな余計なお世話をする「編集者」などまずいない。それがブログがチラ裏と呼ばれる所以である。
非モテの社長のブログに掲載されている「商品」のキャッチコピー<世の中の全てのコンテンツを、見やすく編集できる>って凄く皮肉だと思わない?
具体的な(実に地味な)作業はもちろんあるけれども、編集の仕事って人間関係そのものなんだよ。「場」を作り、整えることが編集なんだ。頭を使って手間暇をかけて、そうやって価値が生まれる。「ノー編集」なんて何の価値もない。彼らは編集を単なる「素材の整理」としか思っていなくて、「素材を放り出しただけの場」で何かが成立するとしか思っていないようだ。
ustを使った「ダダ漏れ」なるメディアの内実も決して新しい方法ではなく、素材主義という意味ではメジャーなメディアのやり方をトレースしただけとも言える。だってその方が考える必要ないし、ラクチンだもん。それってバラエティ番組の台本に大まかな構成だけ書いて、「あとはよろしく(アドリブで)」ってタレントに丸投げするようなもんでしょ。
この現象も過渡期かねェ…たぶん過渡期だろう。いくら持ち上げたって(蔑んだって)ネットは所詮方法でしかないんだから。
そらのさんは「私は場を作ってるだけ」とかツイートしていたけれども、皮肉の意味で治ちゃんの「原っぱの論理」を思い出した。場って、作ってる人間にとってはもっと切実なものだと思うけどな。
「francesco3氏」と「めがねおう氏」の炎上ツイートまとめ
発端の非モテタイムズ編集長氏の主婦ライター氏への一方的な罵倒・中傷はそもそも議論にすらなっていないので論外なんだけれども、ここに来て「炎上マーケティング」が指摘され始めている(これとかこれ)。これ、確信犯としてやっているのならば本当に怖い話である。他人の存在を完全に商売道具にしか見ていないわけだから、メンタリティとしてはオレオレ詐欺と変わらんよね。何だ?炎上マーケティングって。
ということで、非モテとライター女史のトラブルに関しては議論の余地はない「人権」以前の問題でもある。これを「議論」だとか、「どっちもどっち」だとか、さらにはライター女史を「クレーマー」扱いできる人が心理がわからない。
問題は生々しいやりとりの余韻が残っている中で、火に油を注いだダダ漏れライブだ。
ケツダンポトフの「そらの」とかいう女の子はツイートを読む限り、何の当事者(加害者)意識もないし、自分が批判されている意味すら理解していないだろう。彼女自身はどこまで行っても無邪気な「広報」さんである。さらに今日トップページに掲載された、彼女のボスが書いたらしき放送中止を伝える謝罪文も何だかまるで他人事で、事態を把握していないような、通り一遍の謝罪文にしか読めない。
「オレ(私)だって表現していいはずだ」「メディアを持っていいはずだ」、さらには「私たちはメディアだ」というのは今の時代の気分としては正しいとは思うが、要するに彼らはやっぱり無責任な「素人」なのだと思う。
既存メディアの「編集」に批判が集まり、「ノー編集のダダ漏れ」が過剰に持て囃される背景には、やっぱりネットの「編集」という発想のなさがあると思うのだ。
ネットが世間に溢れるほどいる素人の名文家を生み出しているのは間違いない。一応プロライターを名乗っている方々よりも遥かに論理的で、構成も巧みな素人ライターの方々は数多い。
しかしそれはプロの世界と同じで、玉石混合のパイが大きくなったということでしかない。
例えばネットでサッカーブログを書く人は数多いが、分析は丁寧で見事だけれども、文章や構成がいまいちこなれてないという人は少なくない。大事なのは編集者なんだと思う。彼らに編集者が適切にアドバイスすればもっと素晴らしいライターになる(はず)。
しかしブログレベルでそんな余計なお世話をする「編集者」などまずいない。それがブログがチラ裏と呼ばれる所以である。
非モテの社長のブログに掲載されている「商品」のキャッチコピー<世の中の全てのコンテンツを、見やすく編集できる>って凄く皮肉だと思わない?
具体的な(実に地味な)作業はもちろんあるけれども、編集の仕事って人間関係そのものなんだよ。「場」を作り、整えることが編集なんだ。頭を使って手間暇をかけて、そうやって価値が生まれる。「ノー編集」なんて何の価値もない。彼らは編集を単なる「素材の整理」としか思っていなくて、「素材を放り出しただけの場」で何かが成立するとしか思っていないようだ。
ustを使った「ダダ漏れ」なるメディアの内実も決して新しい方法ではなく、素材主義という意味ではメジャーなメディアのやり方をトレースしただけとも言える。だってその方が考える必要ないし、ラクチンだもん。それってバラエティ番組の台本に大まかな構成だけ書いて、「あとはよろしく(アドリブで)」ってタレントに丸投げするようなもんでしょ。
この現象も過渡期かねェ…たぶん過渡期だろう。いくら持ち上げたって(蔑んだって)ネットは所詮方法でしかないんだから。
そらのさんは「私は場を作ってるだけ」とかツイートしていたけれども、皮肉の意味で治ちゃんの「原っぱの論理」を思い出した。場って、作ってる人間にとってはもっと切実なものだと思うけどな。