吾輩は俳句である。形はまだ無い。人間の心身を借りて形を成し、満を持して外へ出る。人間に悟られぬように、あたかも人間自身が俳句を吟じたかに錯覚させ、自己満足に陥らせつつ、また吟じさせる。人間にも当たり外れがあり、良い句と成るか否かは賭けのようなもんである。今日の人間はまあまあ、と言っておこう。
装具をつけて連句の会に行ったら、皆が同情して、チヤホヤしてくれた。いつもより句が採られた気さえする。家でクサクサしてるより、外でワイワイする方が気晴らしになる。家でワイワイしていた子規の事を暫し考える。今朝は膝の診察だ。
「句集野路菊より」
菜の花や大法要の僧十人 信野
大法要とは何のことだろう? 父の法要に僧十人も来ないだろう。面白いのは、季語「菜の花」をあっせんしたこと。おかげで、菜の花の咲き続く道を十人のお坊様が一列に並んで袈裟を着て、ぞろぞろと歩いて来る光景が浮かぶ。それは現実では無いだろうが、そんな長閑な菜の花日和が感じられるという事は、この季語は成功。