俳句あるふぁ』(毎日新聞出版)の2020年夏号には、いつき先生、「発掘 忌日季語事典」の連載の他に、飯田龍太の生誕100年特集にも「龍太との出会い」を寄稿されています。
紺絣春月重く出でしかな 飯田龍太
を引いていらっしゃるのですが、そこに 「一読した瞬間、二歳年下の妹が生まれた夜に、私が着せられていた紺絣の白い図柄がフラッシュバックしました。新しい絣のごわごわした肌触りや独特の藍の匂いまでが蘇ってきて、俳句って何、これ?! と驚嘆したのです。」(p.99) とあるのをちょうど今日拝読しました。本当にいつも思い合っていらっしゃる仲の良いご姉妹ですよねえ。
と書いて下さっている。この話は我が家では有名だが、絣の着物の柄が蘇った、という細かい記憶は、姉が山梨で講演をした日に初めて聞いて感動した。
私が愛媛の自宅で生まれた昭和三十四年十二月一日、姉は次の間の寒い畳の上に期待と不安に満ちて座り、母が出産する様子をつぶさに聞いていた。二人目なので母は余裕があり、お産の進み具合も早く、産婆さんが到着して、「はよ、はよ、ころびなせや。頭が出てしまうけん。」と言われてもまだ粘り、寸前まで厠の掃除をしていた。私が生まれた直後、姉は熱を出した。父が寝かせようとしても、二歳半の姉はいつまでも母の枕元で飽きず妹を見て、夜になってようやく、「赤ちゃんおやすみ。姉ちゃんも寝るけんね。」と言って休んだ。母は生まれた子より、姉の熱が心配でたまらなかった。母のその気持ち、私は自分が次女を生んだ日にありありと実感した。当時二歳の誕生日直前の長女は、全身でしがみついて、「ママー、ママー。」と不安がって泣いたので、陣痛が間断なく来てしまうまで病院へ行けなかった。あっという間の分娩。産む間も長女の泣き顔が思い浮かび、「はよ産んで帰りたい。」とばかり思ってた。ママー、という声が耳に蘇るたび、お乳が漲って溢れてきた。二人目の子は、その乳を飲んで育つのである。
抱く吾子も梅雨の重みといふべしや 龍太
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