僕の住む千曲市の南に坂城町があります。
この坂城町の国道18号沿いには、イスラム教徒のためのモスクがあり、千曲市、坂城町だけでなく、県内のイスラム教徒が礼拝や断食のために集うと聞きました。
また、千曲市には(僕は利用したことが無いのですが)タイ料理のお店もあります。
僕が冒頭から宗教のお話をしたのは、少なくとも「サッカー」「フットボール」に関して言えば、黎明期から宗教の枠を超えているのではないか、というものです。
英国を期限とするフットボールは、港町、当時は造船、海上貿易が主流でしたから、各大陸の港町から内陸部に伝わってゆきます。
南米諸国は基本、キリスト教徒であるポルトガル、スペインの植民地でしたから、現在でも多くの民がキリスト教を信仰しています。
一方でイスラム教を基本とする中近東、仏教を軸とするタイやミヤンマー。
これらの国でも
「サッカーはキリスト教徒の国で生まれた競技だ」
「従ってサッカーを生活に取り入れることは許されない」
ということにはなりませんでしたよね。
同じキリスト教徒でも、カソリック、プロテスタント、カルビン、メソジスト、他にはロシア正教やギリシア正教、セルビア正教など枝分かれをしています。
仏教が浄土宗、天台宗、真言宗などに枝分かれしていることと同様なのでしょう。
少なくともローマン・カソリックを信仰している方からすれば、プロテスタントは同じ救世主イエスの教えの下に集う存在でも、異質なわけですよね。
しかし、セルティックとレインジャーズのような例、つまり宗教的価値観で応援するクラブは違えど
「サッカーをするな、応援をするな」
「自国の代表に関心を持つな」
ということにはなりませんよね。
もう少し付け加えますと、2次大戦でドイツから蹂躙されたベルギーやチェコ、オランダの選手たちもブンデスリーガから魅力的な打診があれば、戦争という記憶を払いのけで移籍してゆきまs。
そう思うと、サッカーを見る、考える、想像するという行為は、世界全体を見渡せるある種の「尊さ」のようにも思えてきます。
この坂城町の国道18号沿いには、イスラム教徒のためのモスクがあり、千曲市、坂城町だけでなく、県内のイスラム教徒が礼拝や断食のために集うと聞きました。
また、千曲市には(僕は利用したことが無いのですが)タイ料理のお店もあります。
僕が冒頭から宗教のお話をしたのは、少なくとも「サッカー」「フットボール」に関して言えば、黎明期から宗教の枠を超えているのではないか、というものです。
英国を期限とするフットボールは、港町、当時は造船、海上貿易が主流でしたから、各大陸の港町から内陸部に伝わってゆきます。
南米諸国は基本、キリスト教徒であるポルトガル、スペインの植民地でしたから、現在でも多くの民がキリスト教を信仰しています。
一方でイスラム教を基本とする中近東、仏教を軸とするタイやミヤンマー。
これらの国でも
「サッカーはキリスト教徒の国で生まれた競技だ」
「従ってサッカーを生活に取り入れることは許されない」
ということにはなりませんでしたよね。
同じキリスト教徒でも、カソリック、プロテスタント、カルビン、メソジスト、他にはロシア正教やギリシア正教、セルビア正教など枝分かれをしています。
仏教が浄土宗、天台宗、真言宗などに枝分かれしていることと同様なのでしょう。
少なくともローマン・カソリックを信仰している方からすれば、プロテスタントは同じ救世主イエスの教えの下に集う存在でも、異質なわけですよね。
しかし、セルティックとレインジャーズのような例、つまり宗教的価値観で応援するクラブは違えど
「サッカーをするな、応援をするな」
「自国の代表に関心を持つな」
ということにはなりませんよね。
もう少し付け加えますと、2次大戦でドイツから蹂躙されたベルギーやチェコ、オランダの選手たちもブンデスリーガから魅力的な打診があれば、戦争という記憶を払いのけで移籍してゆきまs。
そう思うと、サッカーを見る、考える、想像するという行為は、世界全体を見渡せるある種の「尊さ」のようにも思えてきます。