塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

レオ・メッシという不世出の選手について

2020-07-18 20:41:54 | 日記
 今バルセロナ会長のバルトメウはどんな心境でしょうか。

 レアル・マドリードにリーグ優勝をさらわれ、チャンピオンズ・リーグでも2015シーズン以来優勝が無い現状、夜穏やかに眠れる日々はそう多くないと予想します。

 今季は監督交代だけでなく、フロントの対立も明らかになりましたからね。

 それ以上に、今のバルセロナにとってレオ・メッシという不世出の天才を、どう起用しどうプレイに集中させるか、というこれまで表面化しなかった、実に重大な課題があります。

 まさか、FCバルセロナという世界屈指の名門そのものを、その天賦の才で飲みこもうとしている選手が登場するなど、クバラの時代からこれまで全く考えることができなかったはずです。

 バルセロナには過去

 1970年代 ヨハン・クライフとヨハン・ニースケンス
 1980年代 ベルント・シュスター ディエゴ・マラドーナ
 1990年代 ロマーリオ、ロナウド

 という名手の中の名手が在籍してきました。

 しかし、彼らをもってしてもクラブを超えるような存在にまで至ることはなく、むしろ彼らのような外国籍選手と国産選手が合致する、非常に均整のとれた選手層でした。

 しかし、現在のメッシはむしろ未完成のサグラダ・ファミリアのように、自身で自身が持つ実力を抑えきれていない、言い換えればクラブも自分も飲みこもうとしている、それくらいの技量を見せています。

 もし今、クライフが生きていたならば、この名手にどのような言葉をかけるでしょうか。

 仮にシティからグアルディオラが復帰し、アル・サッドとの契約を終えてチャビ・エルナンデスが就任しても、その立て直しは一筋縄ではいかないでしょう。

 逆に言えば攻撃陣、守備陣のいずれもメッシのプレイについていけず、彼の才能と技量だけが突出してしまいかねない気がします。

 だからこそ彼は、ネイマールという自分に比肩する技量を持つ選手が必要なのでしょうが、その為にはまず売却が必要と思いますが、バルセロナとメッシの算段は今夏、うまくゆくでしょうか。
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恩師と弟子の間柄について

2020-07-18 19:25:42 | 日記
 ドラガン・ストイコビッチのように、敬愛する指揮官と巡り合えた選手は、本当に素晴らしい時間を与えられたに違いありません。

 クラブではアルセーヌ・ヴェンゲル
 代表ではイビチャ・オシム

 その哲学と学ぶ姿勢を一切崩すことの無かった両指揮官の存在が、グランパスエイトが2010年J1初優勝した際に、ファンの多くが感じとったと言えます。

 僕は中学時代、学習塾の2年近く通いました。

 その際、僕は苦手な数学や化学を受講したのですが、数学の先生で「I先生」と出会いました。

 僕にとって先生は当時、本当にかけがえのな存在でして、先生がいたからこそ数学の奥深さを感じとれるまでに成長したのです。

 が、その矢先、転勤なのでしょうか教師が変わってしまい、その教え方、僕たちに対しての接し方にあまりに落差があり、せっかく関心を抱き、得点が上昇した数学の勉強がほとほと嫌になりました。

 僕がプロのサッカー選手だったなら、個別にI先生を雇い常にアドバイスを欲した、くらいの方だったんですね、僕にとっては。

 僕はファビオ・カペロやフェリックス・マガトのように

 「私の言うことを常に聞き入れなさい」
 「敗戦が続けば練習はさらにきつくなる」

 という恐怖政治には一切関心がありません。

 むしろ、彼らのような指揮官が短期で終わる傾向にありますし、ヴェンゲルがアーセナルであれほど政権を維持できたのは、選手を常に慮る行動のたまものだったに違いありません。

 僕には基本、恩師と呼べる方がいるかと言えば、その中身はあいまいなのですが、やはりプロにはその成長を助けるコーチの存在が、大きくものをいうことは間違いないと感じます。
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等身大と言う言葉

2020-07-18 19:16:28 | 日記
 等身大と言う言葉があります。

 「逃げるは恥だが役には立つ」の再放送が常に反響を呼ぶのも

 1・森山みくりのように、仕事先を解雇され先行きが見えない女性が多い
 2・津崎ひらまさのように、女性関係に疎く、交際経験も自分自身を褒めることさえできない男性が多い

 という現状を示している、だからこそある種の「カタルシス」があるように感じます。

 イタリア代表は2018年ワールドカップを逃しましたが、過去4度の優勝は色あせません。

 ですからどんなにクラブ有利となっても、イタリアの選手たちにとって

 「マーリア・アズーラのシャツを纏うこと」
 「代表選手として使命を尽くすこと」

 はかけがえのないものです。

 2002年ワールドカップに向けての新戦力発掘のため、当時トリノに在籍していたアントニーノ・アスタは、新全試合の米国戦、それも前半45分だけの出場でした。

 エンポリでマウリツイオ・サッリに見いだされ、4-3-1-2のレジスタとしてその才能が輝いたヴァルディフィオーリ。

 彼もまた、代表キャップ数は限られましたが、誇り高きマーリア・アズーラのシャツを纏うことが出来ました。

 たとえ45分でも、わずか数試合でも、両選手にとっては本当にかけがえのない時間だったに違いありません。

 労働者階級のサッカーを愛する気持ちはいつでも変化はありません。

 だからこそ、苦労して何度も批判を浴び、移籍を繰り返してようやく代表の座を射止めた彼らは、労働者にとっての「等身大」と言えるのではないでしょうか。

 ちなみにアンドレア・ピルロがファビオ・ベッキアと入れ替わり、ユヴェントスのアンダー23の指揮官に就任します。

 ニューヨーク・シティでひっそりと現役を退いた彼ですが、指揮官としても「マエストロ」と讃えられる日が来るでしょうか。

 マンチーニは代表を再浮上させることが出来ましたが、その行く末はピルロのように現場を預かる指揮官が選手を成長させることが大きな手助けとなります。
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