ロック探偵のMY GENERATION

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テンプターズ「忘れ得ぬ君」

2021-02-13 22:38:03 | 音楽批評


今回は、音楽記事です。

このカテゴリーでは、以前スパイダースについて書きました。
スパイダースといえば、グループサウンズ(GS)を代表するグループなわけですが、その弟分のような存在として、テンプターズというバンドがありました。
“ショーケン”こと萩原健一さんが所属していたことでも知られるバンドです。
GSのほうに話が流れてきたので、今回は、このテンプターズについて書いてみようと思います。



テンプターズが結成されたのは、1965年のこと。

もとは高校の同級生たちのあいだで結成され、次第にメンバーを拡充していき、当初はダンスホールやディスコなどで演奏するバンドとして活動していました。
67年には、のちにかまやつひろしとウォッカコリンズを結成することになる大口広司がドラムとして加入。実力をもったバンドとして関東で名を馳せていたようです。

その評判が、田辺昭知の耳に入りました。

スパイダースのリーダーである田辺昭知さんは、「スパイダクション」というみずからの事務所を設立していました。すごいやつらがいるという噂を聞きつけた田辺さんは、みずからの事務所にテンプターズを所属させます。


「忘れ得ぬ君」は、そのデビュー曲。

一聴、いかにもグループサウンズらしい曲です。
このデビュー曲がいきなりヒットし、テンプターズは一躍GSを代表するバンドとなるのです。


しかしながら、その活躍も長くは続きませんでした。

テンプターズがデビューした直後ぐらいから、GS自体がブームの終焉を迎えつつあったのです。
プロダクションの社長である田辺さんは、テンプターズの活動継続について煮え切らない態度をとっており、しびれを切らしたショーケンさんが、スポーツ紙に解散をリークし既成事実化したといいます。結局のところ、71年の日劇ウェスタン・カーニバルが、テンプターズのラストステージとなりました。

もっとも、実際にはテンプターズはそのときすでに開店休業状態にあったともいいます。テンプターズが活躍した時期は、わずか2、3年ほどでした。

もう一つ付け加えると、この71年日劇ウェスタン・カーニバルは、テンプターズにとって兄貴分にあたるスパイダースにとっても終焉の舞台でした。スパイダースもまた、ここでのステージを最後に解散しているのです。

彼らのラストステージが日劇ウェスタン・カーニバルだったというのは、ある種の因縁を感じさせます。

日劇ウェスタン・カーニバルは、1959年にロカビリーの祭典として出発し、守屋浩や水原弘を輩出しました。
しかし、ロカビリーは50年代後半の一時的なブームに終わった。
そして、結局のところ、GSも60年代後半の一時的なブームにしかならなかったということでしょう。
その時代をリアルタイムで体験したわけではないので、実際世の中の受け止めがどのようなものだったかというのは推測するしかないんですが……

そんなふうに考えると、日劇ウェスタン・カーニバルというイベントは、日本におけるロックンロールの限界を示してもいたのではないかと思えます。


では、そのロックンロールの限界とはなにか。

それは、スパイダースの記事でも書いた、日本における歌謡曲というものの圧倒的な重力でしょう。その重力は、表舞台にあがってきたミュージシャンたちを片っ端から呑み込んでいき、逃れたければ表舞台から立ち去るよりほかない……本邦音楽業界にはそんな重力場が作用しているようなのです。


私の手元に『ストーンズ・ジェネレーション』というローリング・ストーンズ本があるんですが、そこにショーケンさんへのインタビューが収録されています。

そのインタビューで、テンプターズの頃ローリング・ストーンズは話題にのぼっていたかと問われたショーケンが、非常に興味深い答えを返しています。

 そうねえ、メンバーはね、意識してたけどね。やはりプロダクションに入るとね、自分の音楽性が、上にいるマネジャーであるとかそういう事に意識がはたらいたりするんでね、そんなことは無視されるようになってくるんですよ。だから、僕達が思ってるわりにはそういう風な傾向は出なかったね。大口(広司)君や、僕なんかはローリング・ストーンズもなんか目の上のタンコブみたいな気持ちで…いつも彼らの音楽を意識してたけど、プロダクション・システムになって、そういうところにグループがドカドカっと入ってくると、プロダクションのおじさん達っていうのはローリング・ストーンズも何もないわけ。ストーンズもピンク・フロイドもないのね。ローリング・ストーンズみたいなものっていうのは営業に通じないんだよ。
 こんなこと言うのはとってもおこがましいんだけど…なんつ~んだろう、バンドは繊細に可愛くなくちゃいけないっていうのかしら、そういうふうな考えの人が多かったんじゃないかしら。だからいくらメンバーの人達がローリング・ストーンズみたいなバンドになりたいと言おうが、何しようが、逆の方向にいっちゃってたみたいよ。だからグループサウンズっていうのも短かった‼ 自分たちの意思っていうのが外に通じなかったし、自分達のバンドの内輪だけで、解決していく形しかなかったからね。そのうちにローリング・ストーンズを忘れてしまった。


まさにここに、私がかねがね書いてきた“歌謡曲化の圧力”が表現されています。
「バンドは繊細に可愛くなくちゃいけない」という考えの人が多かったというのは、GSの曲をいくつか聴いているとよくわかる気がします。なるほど、ストーンズもピンク・フロイドもないわけです。
おそらく、多くのGSバンドが同種の葛藤を抱えていたものと思われます。
そしてその軋轢が、GS自体を一過性のブームに終わらせてしまった原因とショーケンさんは考えているようです。
かくして、ローリング・ストーンズを忘れてしまったショーケンさんは、俳優業に力を注ぐようになり、一時音楽活動を休止してしまいました。
その過程でPYGというもう一つの大きな挑戦があったわけですが……そのあたりについては、また別の機会にあらためて書きたいと思います。




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