先日、私の学んだ小学校の閉校式に行ってきた。このことは、少々ブログにも書いたのですが、子供の頃を思いやりながら感じていることを書いてみます。
あの上川の東雲で過ごしたのは15年ほどなのに、私の人生はそこにあるみたいに長く感じられる。一日一日、少しも空白の無いような、人生がそこにはあったように思う。何年先なんてまったく考えなかった、無限の人生が広がっているように思っていたのかもしれない。当時、60歳とかといえば、たいへんな老人で、そうした老人を見ながらも、自分もそのようになるのだなんて思いもしなかつた。
目の前に広がることの総てが新しく、自分をかり立てていた。考えてみると毎日成長を続け、次々に新しいものに触れ、しかもそれらを受け入れていた。それが出来たのが若さだったのでしょう。多くのことを学び受け入れていたから、時間が必要だったし、長い間という思いが残るのかもしれません。
老年期に入って、時の経つのが早いと感じるのは、逆に学ぶべきことが少なくなったからでないでしょうか。また、新しいものを受け入れる人間としての収納力も狭くなり、内実として、スリムな、時の流れに対する抵抗力の無いものへと変わったからではないでしょうか。
忘れることは、全く変な捕らえ方をしてみれば、器の収容力がなくなっているということで、いわば、人間という器が、器としての機能を失いかけている、喪失というときつすぎるけれど、スリムになって、いわば軽々と時を過ごしているから時間が早いということになるのではないでしょうか。
子供のときに、はるか遠く、そんな自分が来ることを思ってもいなかった自分になっている。子供のときは無限だった時間が、今は後何年と先を読むことすら出来る。古来稀といわれた歳はとっくに過ぎて、現在の平均寿命に到ったことを改めて感謝しなければならない。少ない人生を長くするのは、忘れることに逆らいながら、新しいことにどんどん挑戦するしかない、今の時間が重たく感じられる生き方をしよう・・・。