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手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

18歳選挙権  政治への目覚め

2016-05-01 19:34:20 | 無題
 18歳で選挙権が与えられるようになった。此の歳で今更思い返すこともないのだけれど、自分の政治に関しての目覚めはとても遅かったように思う。

 15歳で敗戦を迎えた。アメリカの占領下に日本は置かれた。15・16・17と、ひもじい思いをしながら過ごした。政治には全くなんなの関心も持たないでいた。それでも私の住むに発電所があって、そこの職員はの中ではエリートのように見られていた。その方たちの中に共産主義のような活動をしている人を見て、何か畏敬の念みたいなものを感じていた。しかし、一方で共産主義に対する何か本能的な反発心があり、いわゆるレットパージを文句なく受け入れる自分を見ていた。
 
 村では村会議員が選出されるようになっていった。その時に父と同僚だった先生が村会議員になったのを見て、先生から村会議員になることもできるのだと思ったことがあった。そして、何時か自分も先生になって村会議員になろうかと思うこともあった。

 選挙権を手にして以来、選挙をしなかったことはない。でも初めのころは誰に、どの党の人をという信念ができていなく、父が先生で社会党の方に投票するのを見ていた。当時、組合活動が盛んで、北教組は社会党を押していた。そんなこともあって共産党は嫌だけけれど社会党ならいいかくらいの思いで投票していた。わたしの友達の多くが、似たような状態で選挙になってもだれに投票するかといった話もまったくなかった。

  30を過ぎてBd市に転勤になって、初めて組合活動、政党政治に関心を持たざるを得なくなった。北教組と高教組が違う政党を支持していることを知ったのもそのころだった。組合活動、教育のあり方などについて、ずいぶん話し合った。そん中でそれぞれの思想信条が問われることになったけれど、私は共産党的思想を受け入れることができなかった。逆にその思想に命を懸けるという方が何人も出てきた。その方たちは教師として素晴らしい活躍をし、生徒から本当に慕われていた。

 私がダメ先生で終わったのは、ある思想に命をかけてもよいという決断ができない優柔不断さがそうしたのかもしれない。そんな仲間と詩吟も一緒に始めたのだけれど、最後まで詩吟をやっているのは私だけです。ただ私は転勤したけれど、ほかの方は転勤をしなかった。詩吟で扱う詩文の中に天皇制崇拝的なものがあり、それを吟じることはできないということから、かなり続けていた詩吟までやめてしまったのだといいます。自分の信条に反する詩を吟じさせられることに耐えられなかったという。そこまで徹底した生き方は尊敬できるけれど私には一寸ついてゆけない強さです。
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