1986年、札幌市西区平和に平和吟友会を立ち上げました。この時は13名の会員でした。まだ私は現役でしたので指導料はもらわず会を運営していました。1991年が私の定年退職の年でした。この退職時に会員から指導料を取ってほしいといわれ、月額1000円をいただき、その中から400円は本部への負担金とし納入してあげる形で進めることにしました。
この年の6月から手稲老人福祉センターが開所されました。この情報を早くに得ていまして、多分開所されたら講座がもたれるはずなので、その中に詩吟の講座かあれば講師として使ってほしいと、あるつてを頼りに申し出ていました。それが実現できたのです。まだ私は指導者としての資格はあり、教室も持っていましたが、吟力は並み居る諸先生に肩を並べる力はありません。ただ、コンダクターを使えることと、漢詩に対する知識は他の先生に劣ることはない自信がありました。開所当時は30人以上の方が集まり、中にはあわよくば講師の座をと狙っておられる方も多数いました。半年くらいして、館長さんのところへ、講師を半年で交代させられないかと申し出た方もいました。その時、せめて1年は交替したくないと申し上げておきました。その後そんな話が伝わったら、女性会員のリーダー的な方たちが、私を擁護し「村川先生をやめさせないでほしい」と館長に直訴してくれたのだそうです。そこらのことについては別に書くとして、この福祉センターの講師をすることにより自分の教室の会員を増やすことができました。手稲の教室は手稲区民センターの第3会議室を使っていました。この会議室は定員15名でそこへ20名以上の方を無理に収容して教えていましたが、二つに分けることにしました。もう一つの教場は手稲コミニティセンターとしました。分けるにあたって、悩みました。コミニティセンターは区民センターから離れていて、不便なところなのです。更にどのような分け方をすればよいのか、わかりません。でももう一教場では無理なのが歴然としていますので決断しました。ある日、こんな言葉で切り出しました。「教場は今やツワルに堪えがたくなっています。新しい教場を一つ作り会員も二つに分かれてもらいます。希望を取っていては収拾がつかなくなるので私から指名します」といって手稲第一教場に13名、第二教場に9名を指名して決めました。大体の交友関係などは見ていましたし、亦丁度良いリーダーもいましたので何とか二つに分けることができました。あとで、泣かれた方もおられたと聞きましたが大変なことでした。現在は会員数が少なくなり、亦一つにまとまっています。・・・つつ゜く</div>
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