◆『存在することのシンプルな感覚』より
「『目撃者』は、エゴとも、またほかのいかなる心的対象とも、同一視することはできない。それは、すべての対象を公平に目撃する。しかし、まさにそこがポイントであって、『目撃者』は、目撃するすべての対象から離れている。言い換えれば、ここには主体/客体の二元論の微妙な形態が残っているのである。『目撃者』は、大きな前進であり、瞑想における必要かつ重要なステップであるが、究極ではない。『目撃者』ないし純粋な魂が最終的に解体されると、それは目撃されるもののすべてのなかに溶解してしまう。主体/客体の区別は崩壊し、そこには純粋な非二元的な意識のみがある。
‥‥そこに主体/客体の分断ないし分離もない。そこにはかぎりなく透明で、光り輝く、開かれた経験の流れがあるのみである。」40(『グレース&グリッド』)
「目撃者」は、いわば旅半ばの宿であるという。それは個人的なエゴの心と、超-個人的な「スピリット」との間の中間点である。わたしの中の「目撃者」は「スピリット」へと向かう最後の案内板であり、同時に最後のバリアである。魂(ソウル)は「目撃者」の住処である。魂のレベルを通りすぎることによって、「目撃者」が目撃されるもののなかに溶解するという流れは、この本でも繰り返し語られる。たとえば、
「すべての経験は、高次であれ、低次であれ、聖なるものであれ、俗なるものであれ、すべて主体と客体、見るものと見られるもの、経験するものと経験されるもの、という二元論から成り立っている。
‥‥しかし真の目覚めは、目撃者それ自体の溶解にかかっているのであり、目撃されるものの状態の変化にあるのではない。」64(「オディッセイ」)
「『目撃者』は、エゴとも、またほかのいかなる心的対象とも、同一視することはできない。それは、すべての対象を公平に目撃する。しかし、まさにそこがポイントであって、『目撃者』は、目撃するすべての対象から離れている。言い換えれば、ここには主体/客体の二元論の微妙な形態が残っているのである。『目撃者』は、大きな前進であり、瞑想における必要かつ重要なステップであるが、究極ではない。『目撃者』ないし純粋な魂が最終的に解体されると、それは目撃されるもののすべてのなかに溶解してしまう。主体/客体の区別は崩壊し、そこには純粋な非二元的な意識のみがある。
‥‥そこに主体/客体の分断ないし分離もない。そこにはかぎりなく透明で、光り輝く、開かれた経験の流れがあるのみである。」40(『グレース&グリッド』)
「目撃者」は、いわば旅半ばの宿であるという。それは個人的なエゴの心と、超-個人的な「スピリット」との間の中間点である。わたしの中の「目撃者」は「スピリット」へと向かう最後の案内板であり、同時に最後のバリアである。魂(ソウル)は「目撃者」の住処である。魂のレベルを通りすぎることによって、「目撃者」が目撃されるもののなかに溶解するという流れは、この本でも繰り返し語られる。たとえば、
「すべての経験は、高次であれ、低次であれ、聖なるものであれ、俗なるものであれ、すべて主体と客体、見るものと見られるもの、経験するものと経験されるもの、という二元論から成り立っている。
‥‥しかし真の目覚めは、目撃者それ自体の溶解にかかっているのであり、目撃されるものの状態の変化にあるのではない。」64(「オディッセイ」)