瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

目撃者とスピリット

2006年02月07日 | 瞑想日記
最近、職場でも家でも忙しい日々が続いている。息の抜けない時間の連続だ。そんな中でサティは、気がつけば行うがすっかり忘れていることも多い。歩いている時間や帰宅して着替える時間など限られた時間しかやっていない。

そんな中、『この瞬間をとらえる、ヴィパッサナー瞑想の世界』の今日付けの言葉に、以下のようなものがあった。

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ヴィパッサナー瞑想者からのメール。
 「…足の痛みを2時間半観察し続けるうちに突然、痛みを苦しみと感じない状態になりました。
 痛み、音、接触感などがすべて等価なものになり、次々と過ぎてゆくのをただ見ているだけで、自分から何かをするということは一切ありませんでした。
 <受身>や<完全な受容>とは、こういうものなのかと思いました。
 その時の心の平安さは他に比べようがなく、今まで経験したことのない、何といったらいいのか分からない出来事でした…」
 素晴らしい体験ですね。
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こんな体験を読むと、私もしっかりサティを続けなければと、励まされる。これが、ウィルバーの言う、「目撃者」に対応するのだろう。

ところでウィルバーは、昨日も引用したが、次のようにいう。「一定の瞑想システムに熟練すると、やがて身体を心に完全に『目撃』しつくして、実際にそれらの上にでる、あるいは超越することが可能である。」こうしてエゴは死に、「スピリット」が目覚めるのだという。これはきわめて大乗的な考え方なのだろう。

ウィルバーとテーラワーダ仏教との根本的な違いがどこにあるのか、自分なりにはっきりさせていきたい、というのが当面の課題のひとつである。
コメント
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