GHQ焚書図書開封第132回
-瞞し打ちで支那の骨肉を切る冷酷無比な大英帝国--
排外的、反政府的感情が渦巻く支那土壌の上で臨検をめぐって起こったアロー号事件。イギリス首相パーマストンは本国から遠征軍を送り、強硬、暴圧的な砲艦外交を展開した結果、英清天津条約(1858.6.26)を締結した。その後、締結された不平等条約に清朝は苦しむことになった。なお、ロシアとは6.13、アメリカとは6.18、フランスとは6.27に締結している。
条約の内容は(Wikipediaより)
1. 軍事費の賠償(イギリスに対し400万両、フランスに対し200万両の銀)
2. 外交官の北京駐在
3. 外国人の中国での旅行と貿易の自由、治外法権
4. 外国艦船の揚子江通行の権利保障
5. キリスト教布教の自由と宣教師の保護
6. 牛荘(満州)、登州(山東)、漢口(長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、潮州(広東省東部、後に同地方の汕頭に変更)、瓊州(海南島)、南京(長江沿岸)など10港の開港
7. 公文書における西洋官吏に対して「夷」(蛮族を指す)の文字を使用しない
であった。
その後、英仏軍が引き上げると清朝では条約に対する非難が高まり、条約の批准を拒んだ。このため英仏軍はさらに天津に上陸、北京を占領したため、1858年の天津条約は1860年の北京条約まで履行されなかった。
北京条約では九竜地方の割譲、800万両の賠償金などや、苦力の奴隷輸出が始まり、アメリカ大陸横断鉄道工事で酷使された。
この条約で、清朝は(Wikipediaより)
1.英仏への800万両の賠償金の支払い(天津条約で課せられた額600万両より増額)、
2.天津条約の実施(北京への外交官の駐留等)、
3.天津の開港、
4.清朝による自国民の海外移住禁止政策の撤廃と移民公認
が定められた。また英仏個別の条項では、
5.清朝が没収したフランスの教会財産の返還、
および
6.英国へ九竜半島の南部九竜司地方(香港島に接する部分)を割譲
をした。
参考文献:「亜細亜侵略史」高橋勇
2017/3/29公開
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます