GHQ焚書図書開封 第1回
-占領直後の日本人の平静さの底にあった不服従に彼らは恐怖を感じていた-
戦後、GHQによって7,100冊の図書が公的機関(役所、学校など)、流通機関(本屋、出版会社)から撤去・廃棄され、アメリカに移送されていた。現在、7,100冊の内、80%は国立国会図書館に所蔵されている。
アメリカ人にとって、占領統治時の日本人の平静さは、他の占領国では見られなかった光景であり、敗北の自己認識をしていないように見えると同時に、来るべき復讐の時に備えて沈黙しているようにも見えた。その恐れから、日本人に罪意識を植え付け、生命力を根こそぎ奪い取り、二度と立ち上がれないように徹底的に戦意を失わせる政策を次々と計画・実施した。戦勝国側の歴史観を刷り込み、敗戦国側の歴史観を抹殺するために行われた焚書はその政策の一環である。ベノナ文書や旧ソ連文書などは最近開示されており、アングロ・サクソンの秘密史も徐々に開示されてきている。しかし、世界に公認されているドイツの悪に対しては、英米は胸を張って開示できるが、こと日本に関する文書については、開示すると英米側の問題点が明らかになると見えて、開示が遅れているのが現実である。
次に行われたのは、新憲法でも禁止されているGHQによる私文書、新聞、雑誌、その他文書の秘密裡に行われた検閲であった。「閉ざされた言語空間」江藤淳著 には、検閲に従事した日本人とGHQの言論弾圧の実態が書かれている。検閲に協力した日本人は、英語が出来て、日本文を英文に翻訳できる知性のある人達で、復員してきて、職なく、金なく、食べるものもなく、明日の命さえわからず、藁にすがる思いでGHQの指示に従ったということだ。こうして、アメリカによって売国行為をさせられた日本知識人は8,000~10,000人にのぼると言われている。後に、これらの人達は戦後社会で革新都市の市長、大企業の社長、著名なジャーナリスト、学者になったりして活躍したそうだが、自分たちのやったことはひた隠しにしていた。「GHQ検閲官」甲斐弦著 には2カ月間にわたり恥ずべき行為をした著者の実体験の証言が書かれている。検閲条項には、日本軍を賛美したもの、また批判したもの。マーカッサー司令官を賛美したもの、また批判したもの。米軍を賛美したもの、歓迎したもの。新憲法を賛美したもの、批判したもの。米兵の行為を賛美したもの、批判したものなどが検閲・没収基準として示されていた。しかも、同じ内容のものを複数の担当者に翻訳させ、齟齬があった場合は、GHQの政策に沿わない担当者を即刻クビにするという暴挙を行っていた。
終戦時、あれほど占領軍に敵意を持ち、表だけは負けたけれど、心の奥には不服従の感情を抱いていた日本人が昭和23年を境に、アメリカに媚び諂い、アメリカ万歳に変わったのは何故か?
敵意を喪失し、従順になってしまった理由として、①生きていくためにはアメリカに依存しなくてはならなかった。②アメリカ人を見たこともない日本人の多くは、西洋合理主義に逆らい、プライドのために戦った。③些細な侮辱には復讐心が燃えたが、巨大な侮辱に対しては刀矢折れ尽きた(腰を抜かした)。④日本が模範とした欧米に敗れてやっぱり欧米にはかなわないと自信を失ったことに加え厭戦気分が蔓延していった。ことが挙げられよう。ガムの普及、ハワイ旅行、アメリカ映画(ターザン、西部劇)の放映、大リーグ選手、米映画俳優の訪日などが、享楽主義に溺れる傾向に拍車をかけていった。対日包囲網は武力戦から思想戦という形に変え戦後も続いていたのである。
「英米挑戦の真相」-対日包囲陣の悪辣性-より
米国が日露戦争直後より今次開戦に至るまでに、あるいは排斥、あるいは圧迫、果ては弾圧など我が国に与えた侮辱と非礼は世界4000年の国交史に稀なるものである。また英国が明治維新戦後より日清戦争まで、そしてワシントン会議より今次開戦直前まで我が国に対してとった態度も、これまた米国と何らかの鳥の雌雄を知らんやの類で、ただ米国の如き暗愚下劣なる露出症的態度でなかったというに止まる。
過去幾多の米英の対日外交ぶりをみれば、その内容の傲慢なるはもちろんその態度や侮辱、その言辞や横柄なすところは、悪辣非道筆舌をもって形容し難きものなり。顧みてよくも我々の先輩はこれを堪忍してきたものだと、その自重の裏に潜む万斛(ばんかく)の血涙をそそうに偲ばざるを得ないほどである。
かかる米英の排日非礼侮日史は分冊に譲って、ここには単に軍事上からこの対日包囲陣のもつ戦略的指摘に止めた。これほどの悪辣なる戦略は、歴史上今たかってなかってことをあえて断言して憚らないのである。
彼らが我国を軍事的に包囲するに先立って、我国をまず外交的に孤立無援にしてしまおうと企図したこの外交包囲網にも満足せず、更に我国の窮乏、衰微を策して我が国に対して経済的圧迫を続け、我国をして経済的孤立に導かんとしたことは前に記したとおりである。
彼らは日本民族の移民を完全に排斥し、我国の製品の輸入や、彼等の日本への輸出品をば、彼等の本国と属領とから意の如く制限したのみならず、他民族の国からも日本排斥を策し、謀略をもって実行せしめた。すなわち、我国を完全にはねのけものにして、貧乏人にしてしまおうとする策で、この排日、侮日はついに悪辣なる経済包囲、経済封鎖という目的のためなら手段を選ばざる結果を招来した。
彼等の企図したるところは我が国を丸裸にし、丸腰にしたうえで、軍事包囲をして我国を袋叩きにしようとしたのである。なかんずく、我が国への油道の切断こそ、その悪辣性の最たるものであった。油道の切断により我国の艦船、飛行機、機械化部隊が動かなくなれば、刃に血塗らずして武装解除し、少なくとも我が国の軍備をして日本国産の油で維持し得る程度まで制限したのと同様である。
こうしておいて、我国を袋叩きにして打ちのめそうとしたのである。例えをもっていうならば、ギャングの親玉がその配下を語って、善良な一人の少年を取り巻いて袋叩きの姿勢を示しつつ、侮辱、罵言、難題を吹きかけ、聞かなければ打ちのめすという構えの姿勢、それが対日包囲陣であったのだ。開戦前の包囲陣は包囲陣にあらずして攻囲陣であったことは前述のとおりである。
凡そ何れの国においても自国防衛のために必要な防備をなすのは当然のことであり、もちろん仮想敵国との交戦の場合を十分に考慮に入れるのは当然のことであるが、それは内容においても、外観的にも守勢的であるべきはずである。袋叩き的構えたる攻勢包囲陣をつくって、挑戦し、相手をして起たざるを得からしめ、起てば、これを袋叩きにして打ちのめそうというような戦略は世界史上未だみざる悪辣なる戦略と断言することができる。
我国の歴史をみても、世界史をみても、戦端を開いたのち、敵の城塞を取り囲み、そして、糧道、水道を断って攻めるのは戦闘の常道で、別に不思議はないが、開戦前から敵を包囲し、糧道、水道と同様の油道、その他軍事資源の路を断ち切り、袋叩きの攻戦的構えをなし、これをもって傲慢、無礼きまわりなく、外交折衝の後の根拠としたことは、古来、大東亜開戦前の英米中心の対日軍事包囲陣あるのみである。かかる悪辣性の包囲陣は、いわば、挑戦そのものであり、起たざれば我が国は自滅するか、袋叩きにされ落命するかであったのだ。俄然、我国が自立自衛のために起ったのは当然の帰結であったのだ。
参考文献:「没収指定図書総目録」文部省 昭和57年、「閉ざされた言語空間」江藤淳、「GHQ検閲官」甲斐弦、「英米挑戦の真相」大東亜戦争調査会『GHQ焚書図書開封1 第一章12~82P/701、第二章82~136P/701』西尾幹二、『日米開戦 陸軍の勝算 -「秋丸機関」の最終報告書-』林 千勝 『日米戦争を策謀したのは誰だ!』林 千勝
2012/01/18に公開
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