seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

働きやすさとは何だろう

2024-01-13 | ノート
わが国の企業業績が長期停滞し、新規性に富んだチャレンジングな研究や製品開発部門も元気を失っていると言われてすでに久しい。その現実を目の当たりにして最も苦闘しているのは現場の人たちだろう。

成功し業績も利益も上げているといわれる他の企業や地域の真似をすればそのとおりに成功するという道理などどこにもないというのは分かりきったことではあるのだが、いまや独り負けの状況にあるわが国の状況を省みて、他の国や地域がどんな工夫をしているのかとふと考えてしまう。
そんな時につい思い浮かべてしまうのが米国カリフォルニアにあるシリコンバレーである。



シリコンバレーという地域の名称を耳にしてまず想起するのが、数々のIT企業をはじめとする多くの新興企業や技術系のグローバル企業、研究所や大学、ベンチャー・キャピタル等が集積している場所ということであり、その地域性による世界最大級のネットワークが存在するとともに、それらの強力なネットワークを活用した共創による事業を積極的に展開しているということである。
いわばこの地域では産業の「クラスター」が形成されているのだ。
クリエイティブ産業に関連する企業や組織・機関が「クラスター=ぶどうの房」のように集積し、それぞれが強力なライバルでありながら、必要に応じて協力し合い、ともに発展してゆくのである。

ついでに補足すれば、シリコンバレーの特色は、人材・ブレインパワーの圧倒的な多様性にあると言われる。
都市自体は人口290万人ほどの規模でさほど多くはないようなのだが、そのシリコンバレーには、世界中からイノベーティブでリスクを取る元気な人々が集まってくるのである。

シリコンバレーは圧倒的な人材の多様性をキープしているが、それは人の循環があるからだという。世界中の元気のいい人々が常に循環しているから、新たな組み合わせが常に生まれる。
新しい知識を獲得し、誰も思いつかなかったようなアイデアを生むのに一人では限界がある。それは多様な人々が交ざり合い、刺激し合うことによる相乗効果によって生まれる。違った考えの多様な人々がいて初めて大きなイノベーションは起こるのである。

さて、そうしたシリコンバレーにも危機は訪れる。
とりわけ、2019年12月初旬に中国武漢市で第1例目の感染者が報告されてからわずか数ヶ月のうちに世界的な流行を引き起こした新型コロナウイルスは、重大な危機的要因となった。
新型コロナウイルスによるパンデミックは、多様な人々が特定の場所に集積し、競争・協力しながら新たなアイデアを生み出すことを阻害するものとなったのだ。
さらに、2016年の大統領選に勝利し、第45代アメリカ合衆国大統領となったドナルド・トランプが進めようとした政策は、多様なルーツを持つ海外からの優れた人材が米国内に流入する道に制限を加え、時には排除することをも是としかねないものだった。

まさに孤立と分断が大きな障壁となって立ちはだかったのである。

このかつてない危機的状況において、シリコンバレーはもとより世界中の企業が必要に迫られ、やむなく導入したのが「テレワーク」による業務の遂行であった。
ただそれだけのことかと訝しく思われる向きもあるかも知れないが、この「テレワーク」は、多くの人を自宅から職場までの遠い距離を通勤することに伴う長時間のロスと肉体的な疲労や苦痛から解放し、その時間を必要な知識、スキルの習得やより生産的な作業に振り向けることを可能にしたのである。
さらにオンライン会議の浸透により、地理的空間的な障壁を乗り越え、自宅やオフィスなど、自由な場所にいながら、出張先の外国や地球の裏側にいる人たちとも同じ時間に会議や打合せを行い、業務上の課題を即座に共有することができるようになったのだ。

これらのことは、働き方の概念を根本から変革する契機となり、「労働」という軛からの解放とともに、従来型の雇用関係にも大きなパラダイムシフトを生み出すのではないかと思われた。
さらに、パンデミックの間にも大きく進化と拡張を果たしつつあるAIや2022年11月に公開されたChatGPTなどとも相俟って、より革新的なアイデアを生み出す手法が開拓されるのではないかと期待されたのだ。

しかしながら「テレワーク」の活用を契機として様々なテクノロジーの発展が働く個人にとっても、組織や社会にとっても山積する課題解決につながるものとなるには、まだまだ多くの時間を要すると思われる。

シリコンバレーにおいても、多くの企業が社員に対し週に3日以上は出社することを求めはじめているという。やはりクリエイティブなアイデアを生み出すためには、人が直接対面しての交流やコミュニケーションが不可欠だということなのだろうか。
一方で、かつての多様性がすでに失われつつあるという気になる話も耳にする。

それでは翻って、わが国の場合はどうなのだろう。
現状は迷走と模索のただ中にあるとしか言えないようである。
「テレワーク」の普及によって、社員が家賃の高い都心部のビルに集まる必要はなくなったとして、本社機能を地方の工場が立地する場所に移転する企業も出てきている。
一方で従来の働き方が有効であるとして軸足を「テレワーク」からオフィスワークに戻す例も多いようだ。現に通勤時間帯の電車の混雑具合はほぼコロナ以前の状況と変わらないという実感がある。

状況は何ら変革されることはなかったのだ。

それ以上に根深い問題なのは、わが国の働き方改革が労働者のためにも顧客のためにも有効に機能していないということなのだ。
そこに蔓延しているのは社員や顧客の利益を無視しても組織を存続させ、既得権益を守ろうとする意識であり、そのためにはデータの改竄や隠蔽をも是とし、不正をも見逃そうとする体質であり、その無理を通すために跋扈する人権を顧みないパワーハラスメントやモラルハラスメントの常態化である。

真に働きやすい労働環境を整備・構築するとともに、人々にとっての新たな価値を創出し、生活の利便性や幸福度を最大化するための、より効果的で創造的なアイデアを生み出すための方法、道筋を私たちはどのように見出すことができるのだろうか。



遊びをせむとや生まれけむ

2023-11-07 | 日記
今年の夏は文字どおり記録破りの暑さで、気がついたら7月から9月いっぱいの3か月間、連日猛暑を記録したのだった。
その余熱のようなものが今も居座っているのか、すでに11月になり、明日は立冬で暦の上では冬だというのに、東京都心の今日の最高気温は27.5度を示し、実に100年ぶりの記録なのだという。

 「あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風」

これは松尾芭蕉の句で、秋になったのをそ知らぬ顔に、西日が赤く強く照りつけている意であり、残暑の心を詠んだものだそうだが、まさにここ数日の日射しは季節外れの強さで肌に突きささってくるように思える。



さて猛暑の3か月間、近所の公園からも、保育園の園庭からも子どもたちの遊びに興じる声がぱたっと途絶えてしまい寂しく思っていたのだが、10月に近くなってようやく走り回る子どもの姿を目にし、その歓声を耳にするようになった時はとても嬉しく感じたものだ。

こうした子どもの姿や声にはこちらの身体の奥底の情動に直接働きかける力があるようで、いつも思い出すのが、平安後期の今様歌謡を集めた「梁塵秘抄」のなかの有名なこの歌である。

  「遊びをせむとや生まれけむ
   戯れせむとや生まれけむ
   遊ぶ子どもの声聞けば
   我が身さへこそ揺るがるれ」

この歌の解釈には実は様々あるようなのだが、もっとも素直に読むならば、遊びにこそ人間本来の姿があるのであり、そうした遊びに興じる子どもの声を聞けばこの我が身もまた自然に突き動かされるようだということだろう。

子どもの本分は遊ぶことである。子どもたちには何ものにも邪魔されることなく、恐怖や貧困、病や飢えといった社会的状況から無縁に心ゆくまで楽しく遊ぶ権利があるのだ。そうした環境をつくり、子どもを守るのは大人たちに課せられた義務なのである。

子どもたちの声を聞きながら、青く澄んだ秋空を見上げていると、この空がどこまでも広がり、遠い国の困難な状況にある子どもたちの頭上の空と直につながっているということを思い知らされる。

その頭上を飛び交うのが無情なミサイルや空爆機などではなく、平和な鳥たちの姿へと変換する方法はないものだろうか。
無力を嘆くのではなく、何が出来るのかを考えたい。

家庭の幸福

2023-10-17 | 日記
前回、アンナ・カレーニナの冒頭に書かれた言葉から人々が思い描く「幸福な家庭像」についていささか脱線気味にお喋りしたのだけれど、最近の報道でもう一度このことを考え直す必要があるなあと思わされた。

それは某県議会の某党議員団が児童虐待禁止条例改正案を提出し、それが一旦は委員会で可決までされたのだが、その内容に対する世の中の反発は強く、提出会派の代表がこの改正案を撤回する仕儀となったのである。
その改正案の中身についてここでは触れないが、それが実際に子どもを持つ保護者にとっては子育ての現場から遊離した非現実的なものであり、むしろ害悪ですらあると考えられたということなのだ。
提案者は記者会見を開き、「私の説明不足」という言い方でこれを撤回したのだったが、条例改正案の考え方自体は間違っていないと今でも言いたいようである。

それにしてもこの提案議員たちが思い描く「幸福な家庭像」とはどのようなものなのだろう。
そんなものにいささかも興味がない、とまでは言わないけれど、それは世に根強くはびこった凡庸な想像力が描き出す「幸福な家庭像」とどこか似かよっているように思われるのだ。

条例改正案に異議申し立てをした人々は当然そこに強い違和感を覚えたのであるが、しかし、そんなステレオタイプの「幸福な家庭像」を単純に信奉するような大多数の人々のいることもまた確かなのである。心の奥底では実はそんなものをいささかも信じてなどいない、にも関わらず。

人々は知っているのである。その「幸福な家庭像」なるものが100年以上も昔からのコケの生えたような古びた価値観によって醸成されたものであることを。
そうした古い価値観が、女性の社会での立ち位置を危ういものにし、社会進出を阻害するどころか抑圧すらするものなって、年々顕著になっている少子化の直接的な要因となっているのではないだろうか。



ここで唐突に太宰治の「家庭の幸福」という小説を思い出す。
そのなかで作者(語り手)は、太宰一流の皮肉と諧謔、韜晦を駆使しながら読者に次のように語りかけるのだ。

「家庭の幸福。家庭の平和。
 人生の最高の栄冠。
 皮肉でも何でも無く、まさしく、うるわしい風景ではあるが、ちょっと待て。
 (中略)家庭の幸福。誰がそれを望まぬ人があろうか。私は、ふざけて言っているのでは無い。家庭の幸福は、或いは人生の最高の目標であり、栄冠であろう。最後の勝利かも知れない。
 しかし、それを得るために、彼は私を、口惜し泣きに泣かせた。」
「曰く、家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」

政治家は家庭の幸福を空想し、精神論で母親や父親など家庭に責任を押し付けるのではなく、より科学的な議論を通じて、児童館や保育園、学校を整備し充実させながら、施設面ばかりでなく実際に従事する人々の配置や働きやすい環境づくりをさらに進展させるほか、職場や地域社会などのあらゆる場所で子育て環境の整備や社会的インフラの積極的な改善などに力を尽くすべきではないだろうか。
考えるべきことは山のようにあるのだ。

夢想に耽るな、考えろ! である。

幸福な家庭について

2023-10-14 | 読書
ヘミングウェイが「パリ・レビュー」誌のジョージ・プリンプトンのインタビューのなかで、原稿をどのくらい書き直すのかと問われ、「『武器よ さらば』の最後のページのところは39回書き直してやっと満足できた」と答えている。
また、トルストイは「アンナ・カレーニナ」の冒頭の部分を17回書き直し、さらに長大な小説の全体を12回にわたって書き直したという。
この「書き直し」というのはいわゆる推敲とは異なり、文字どおり全面的に一から書き直すということなのだろうか。その回数の多寡にはいささか眉に唾して考えたいとつい勘ぐってしまうのだが、ヘミングウェイは毎日、その日に書いた語数を記録していたというから、おそらくはったりなどではない正真正銘の努力の証しなのだろう。
いずれにせよ巨匠たちの作品に注ぎ込む集中力と精力の猛烈さには脱帽しかない。

さて、アンナ・カレーニナの書き出しの文章はとりわけ有名である。
「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」(木村浩訳)というのがそれだが、これには一体どのような意味が込められているのだろう。
ある日、たまたま友人と話をしていて何故だったかこの冒頭の文章についての戯れ言が始まった。
その友人は、こんなのはただのこけ脅かしに過ぎず意味なんかないと断言するのだが、まさか世界文学の最高峰の小説の書き出しに意味がないなどということがあるだろうかと私は大いに反駁したものだが、当の友人の関心はもう別のところに移っていて話のかみ合うどころではないのだ。

それでも食い下がる私に友人の言うには、そもそも「幸福な家庭はすべて互いに似かよったもの」という言い切り型の定義づけそのものがおかしいというのだ。
すべての「家庭の事情」なるものをつぶさに見てきたふうな口ぶりだが、その家庭がはたして幸福かどうかの尺度は結局のところ個々人のあくまで主観でしかない。百歩譲って仮に幸福な家庭が互いに似かよったものだとするなら、それは人々の思い描く「幸福な家庭像」なるものが単純に似かよっているということなのである。
わが身を振り返ってもそうだし、試しに身近にいる誰でもよいのだが、「あなたの家庭は幸福ですか?」と訊いてみるとよい。誰もが、一瞬戸惑ったのちに「はい、幸福です」と羞じらいながら答えるのではないだろうか。
けれど、そこでもう一歩踏み込んで「ではあなたの考える幸福な家庭とはどのような家庭ですか?」と訊いたとしたら人はどう答えるだろう。おそらくは誰もが似たり寄ったりの凡庸な家庭像しか思い浮かべることができないのではないか、というのが友人の言い分なのである。

私はなるほどなあと思いながら、凡庸な想像力が描き出す凡庸で似かよった幸福な家庭、というものを思い浮かべていた。
しかし、わが身を振り返ってみてもそうなのだが、人は誰しも他人に言えない事情を抱えているものである。
その深刻の度合いはさまざまであり、それを不幸と思うかどうかもまた人それぞれであるにしろ、完璧に幸福な人などどこにも存在しないのではないだろうか。
それこそ「不幸のおもむきは異なっている」のである。

と、そこで友人の持ち出したのがチャップリンのよく知られた次の言葉である。

「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」

芸術、とりわけ小説なんてものは人様の人生やものごとをクローズアップして描くものなのだ。となれば、そこに表現されたものは悲劇の様相を帯びることになる。
結局、アンナ・カレーニナの冒頭の言葉は、これから私はある家庭の不幸の有り様をこと細かに書いて行きますよ、という作家としての「宣言」なのである。
ま、それ以上の意味はないのじゃないか? というのが友人の結論なのだった。

なんだか腑に落ちないながら、私はなるほどなあと頷くしかなかったのである。

ふしぎな少年

2023-09-03 | 雑感
「時よとまれ。汝は美しい」というのはゲーテの「ファウスト」の終盤、ファウストが思わず洩らした言葉である。
これを引用した「時よとまれ 君は美しい ミュンヘンの17日」は1972年開催のミュンヘン・オリンピックの公式記録映画のタイトルだった。
このほか日本のポピュラー音楽のタイトルにもこの「時間よ 止まれ」は様々な歌い手によって使われている。
いずれも時間というものが否応なく流れて言ってしまうことへの愛惜の思いが込められていて、当然ながら時間を止めることなど到底不可能であることを自明のこととしているのである。



一方、SFドラマの中ではその不可能を可能にする能力を持った主人公が現れたりする。たとえばNHKが半世紀以上も前に放映した少年少女向けのテレビ番組「ふしぎな少年」がそうしたドラマの先駆けと言ってもよいかも知れない。
それは、主人公の大西三郎ことサブタンが友人たちと遊んでいるうちに四次元世界に入り込んでしまい、そこで「時間よ止まれ!」「時間よ動け!」と唱えることで時間を自由に操り、自分は動き回ることができるという超能力を身につけて現実世界に戻り、時間を止めることで危機一髪の事態を回避したり、犯罪を未然に防いだりと大活躍するというストーリーだった。

このドラマについてはいまも多くの人が言及しているようなのだが、当時の少年少女がすでに高齢者になった今もなお懐かしさを込めて語られるのは、それだけ「時間を自由に操る」というあり得ない設定が魅力的だったということの証しなのだろう。
しかしその昔、「ふしぎな少年」というドラマを見ながら当時の子どもたちは一体なにを感じていたのだろうか。
私のように「時間が止まる」ことを無邪気に信じ、時間を自由に操る能力を持った主人公の少年にあこがれを抱くような素朴な視聴者ばかりでなかったことは確かだろう。
時間の流れを自在に操ることがこれ以上ないほどの万能感を体現する力であることに間違いないとして、問題は実写ドラマの中でそれをどのようにして現実感をもって表現するかということなのだ。

このドラマ放映とほぼ同時並行的に発表されていた手塚治虫による原案の漫画の中であれば、時間が止まり、あらゆるものが静止してしまった世界をリアリティをもって描くことは容易であったはずだ。
しかしこれを実写版のドラマで描くことには多くの困難が伴ったに違いない。加えて当時はヴィデオカメラなどはまだまだ高価で普及しておらず、大半のドラマやバラエティ番組が生放送で制作されていた時代なのだ。
事実、ドラマの中でサブタンが「時間よ止まれ!」と叫んだ瞬間、世界のすべてが止まることを表現するのに、カメラに映し出された登場人物たちは一斉にその動きを止め、いわゆるストップモーションを演じるのだ。
足早に歩いていた人々も、喫茶店で運んできたコーヒーをテーブルに置こうとしていたウェイトレスも、カップを口に運び今まさに飲もうとしていた客も、大口を開けて談笑していた人々も、その誰もがサブタンのかけ声に合わせその瞬間の動作を止めるのだ。
生放送のことゆえ否応なくそのタイミングがズレてしまったり、無理な姿勢で動きを止めたため、片足をあげたまま震えの来るのを必死にこらえる人や、コーヒーカップがお盆からこぼれそうになってガタガタと音立てるのを歯を食いしばって堪え忍ぶ姿が画面に映し出されていたものだ。
こうしたことはまさに時間を止めることの不可能性をまざまざと見せつけるものだった。当時の視聴者はそうしたことも含めてこのドラマを大いに楽しんでいたのかも知れない。

話は少し変わるけれど、このサブタンの超能力は自分以外のものに対して時間を止めるのだが、これを自分だけに適用することはできないものだろうか。つまり、自分の時間は止まるのだが、世界はどんどん時の歩みを進めるという具合に。
そうなったら誰が自分の時間を元通りに動かすのかという問題が残ってしまうが、それはそれとして後世の知恵に委ねるしかない。

昔、当時の医学では治癒することができない難病患者が、自分の身体を冷凍保存し、100年後に解凍するように設計したうえで、未来の発展しているであろう医学に病気の治療を委ねるということを考えた人がいるということを耳にしたことがある。
それが実際に行われたかどうかは分からないのだが、なかなか興味をそそられる夢物語である。

同じように、身体の中で増殖する癌細胞を抱えた自分自身に対して「時間よ とまれ!」と命ずることできないものだろうか、ということを時たま考えることがある。
一度、ドラマの世界に入り込んでサブタンに訊いてみたいものである。

日々変わりゆくもの

2023-07-29 | 日記
私の住んでいる街にはいくつかの商店街があって、中には多くの居酒屋が集積してよくテレビなどでも取り上げられる名の知れたところもあるのだが、私が好んで歩くのは家からほど近いアーケードのある商店街である。
雨降りの日に傘をささずに歩けるというのも理由の一つだが、狭くもなく、広すぎることもない道の両側に並ぶ店の一つひとつを眺めながら、昼時の賑わいや夕方の雑多な人波から発せられる喧噪に包まれながらぼんやりと歩みを進めるひとときは不思議に心慰められるような気がするのだ。
しかし、それ以上に私の好きなのが、朝の9時過ぎの時間帯である。モーニングサービスをやっているカフェなどを除けば、まだ多くの店は10時の開店に向けた準備に余念がなく、店舗前に停車したトラックから荷物を下ろして搬入したり、店の奥から台車に載せた商品を運び出し、少しでも人目につく場所に並べ直したりと、誰もがかいがいしく動き回っている。それらの動きから生まれる様々な音には、どこか人の心を鼓舞するような躍動感があるのだ。



そうした商店街の開店前準備の様子を見ながらふと思ったのだが、これは劇場での公演で開演時間の迫るなか、俳優も裏方スタッフも一丸となってあわただしく客を迎え入れる準備にいそしむ光景とどこか似通っているのではないだろうか。
そう思うと、商店の一軒一軒は立ち並ぶ芝居小屋のようであり、そこで声を張り上げて客を呼び込む店員たちはさながら木戸芸者あるいは千両役者といったところかとも思えてくるのだ。商店街はブロードウェーやウェストエンドの劇場街であり、時には花道となってそこをそぞろ歩く人々をより華やいだ気分にさせるのである。

それはまあただの妄想に過ぎないとして、商店街の姿をよくよく見れば当然ながらそこには日々変化のあとがくっきりと見て取れる。
それがいかに魅力的で気持ちを浮き立たせてくれるような光景であろうと、いつまでも変わらずそこにあるということはあり得ないのだ。それどころか、ふとまばたきをした次の瞬間に何かが変わってしまっているということさえあり得ることなのだ。
そう思ってあらためて商店街の様子を見てみると、そこには時々刻々変化しつつある人々の営みが連綿とつながっているのだと感じさせられる。
私自身もよく通い、当たり前にそこにあると思い込んでいたカフェがいつの間にか閉店してしまい、次の業態に合った内装にするための工事が行われていたり、老舗の風情ある日本料理店だった場所がラーメンのチェーン店になっていたりする。しかもそうした様々なチェーン店がこのアーケード街のわずか200メートル足らずの間に何店舗も軒を連ねているのだ。
そればかりではない。なぜかこの商店街にはメガネ屋が5,6店舗は点在しているし、整体・ストレッチの専門店が同じく数店舗集積している。それだけニーズがあるということなのだろう。
一方で昔ながらの生鮮食品を扱う店は僅少なものになりつつある。それは至近な場所にスーパーマーケットがいくつも出来たという事情もあるのだろうが、そのスーパーだって昨今の消費需要の低迷の中で閉店あるいは縮小を余儀なくされている。
のどかな光景と思っていた商店街はそうした社会経済情勢や人々の需要の変化の波に洗われながら日々姿を変えているのである。
当然ながらそこに働く人々も、商店街を行き交う人々の姿もとどまることなく変化している。まさに変化こそが常態なのである。

村上春樹の長編小説「街とその不確かな壁」のあとがきの最後にこんな言葉が書かれている。
「……真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか」

この言葉にはそう簡単に首肯することのためらわれる部分もあるように感じてしまうのだが、たしかにそうした変化の中にこそドラマや物語が生成される源が潜んでいるのは確かなことであるようだ。


大江健三郎と演劇

2023-04-11 | 演劇
前回書いた大江健三郎と同時代の演劇人との関係については無知をさらけ出してしまったけれど、もう一人、井上ひさしのことを書き洩らしていた。
井上ひさしは大江と同学年生まれであり、同じく九条の会発起人でもある。大江は井上ひさしのことを劇作家、小説家、そして何より同時代の知識人として尊敬していたと聞くが、その新作舞台の劇場には必ず足を運んでいたようだ。
井上ひさしの演劇作品が大江文学に影響を及ぼすことがあったのかどうかは分からないのだが、大きな励ましや癒しになっていたのではないかと勝手ながら推測する。

今月の文芸誌各誌には大江に対する追悼文が多く掲載されているが、その中で、野田秀樹や岡田利規といった自分より若い世代の人たちの舞台にもまめに足を運び、交流のあったことを私ははじめて知った。

また、文學界5月号では作家の長嶋有が次のようなエピソードを書いていて実に面白い。

……ある日、ある人の芝居をみて劇場の外に出たら、旧知の編集者と並んで大江さんが出てきた。同じ回をみていたのか。近づいて挨拶したら開口一番「つまらなかったねえ!」と異様に張りのある声で劇評を吐き出して、愉快そうに笑って立ち去っていった。……

こうした話を読むと、その人柄とともに彼の生活のなかで演劇が身近なものだったことが伺い知れて何だかうれしくなる。
一方、あるインタビューの中では、映画館の暗がりに2時間拘束されることがつらいので映画はめったにみないという話をしていた。やはり、演劇やクラシックのコンサートは特別のものということだったのだろうか。

そういえば大江が大学在学中にはじめて書いた小説「奇妙な仕事」で注目されるさらに前、彼は「獣たちの声」という戯曲を書いているし、芥川賞受賞作「飼育」を書く少し前には「動物倉庫」という戯曲を書いている。
小説家・大江健三郎の仕事のバックボーンの一つとして演劇があったのかも知れないと考えることはあながち的外れなことでもないように思えるのである。




同時代

2023-04-01 | 演劇
先日、ある友人から今度会った時の茶飲み話のネタにということで関容子著「名優が語る演技と人生」(文春新書)という本をいただいた。「超豪華キャスト8組16人が語らうとっておきの舞台裏ばなし」といううたい文句の本で、関容子氏が聞き役となった名優たちの対談が収められているのだが、とびきりの発見があるという内容ではないのだけれどとても懐かしい話がてんこ盛りの楽しい本である。(以下、敬称を略します)

その中の柄本明と白石加代子の対談で、柄本明が1975年に白石加代子の出演していた早稲田小劇場の舞台「アトリエ№3 夜と時計」(鈴木忠志演出)を岩松了と二人で観に行き、その時、岩松了が、芝居観て初めて面白いと思ったと言ったというエピソードを紹介しているのだが、私も同じ舞台を観ていたので何だか懐かしくなってしまった。

それをきっかけに色々なことを思い出していたのだが、その時の舞台を確か作家の大江健三郎が観に来ていたのだった。もう随分昔のことで記憶はいささかぼんやりしているのだが、その翌年に早稲田小劇場は富山県利賀村に本拠地を移してしまうので間違いはないと思うのだ。
芝居が終わり、退場する観客の中、私のすぐ前を大江氏が歩いていて、そのまま楽屋口に入って行き、そこにいた演出家の鈴木忠志と挨拶を交わしていたのを目にしたのだが、大江健三郎と演劇のつながりがその時は意外な気がしたものだった。

しかし、同時代に生きる異なる分野の芸術家が交流し、刺激し合うということは当時も今も変わらないはずだと思えば何の不思議もないのかも知れない。

昭和63年に刊行された「最後の小説」というエッセイ・評論に加え、戯曲・シナリオの草稿が収載された本の中で、大江は演出家・鈴木忠志のことを、その時期に観た舞台の感想を含め次のように書いている。

「チェホフの『三人姉妹』を、あまり会うことはないが、独自の綜合的な才能として敬意をいだいている友、鈴木忠志が、かれの方法の、ある完成度を示しながら演出した舞台を、時を置いて二度見た。そのたびごと僕がしだいに深く説得された鈴木の演出は、チェホフの戯曲を念入りに解きほぐして、抽象化し、その方向づけでリアリティーの今日的な強化をなしとげたものだ」
「……僕のなかで、鈴木忠志演出がいまや動かしがたいのだ」
「……グロテスク・リアリズムのイメージ・システムとして現実化した舞台を見ながら、僕はほかならぬ祈りの声を聴きつづけるようだったのだ。それもいかにも今日的な……」

大江健三郎文学を同時代の演劇との関連で分析した批評や研究があるのかどうか、不勉強の私には分からないのだけれど、興味深い視点ではないだろうか。
三島由紀夫が暗黒舞踏の土方巽や大野一雄を評価し、土方に私淑した唐十郎が澁澤龍彦をはじめとする同時代の文学者や文化人と交流しながら、その世界を拡大していったような影響関係が大江健三郎の周辺にもあるとしたら、とても面白いと思うのだ。

大江健三郎と同じ1935年生まれと言えば小澤征爾の名がすぐに浮かぶが、そのほか寺山修司、蜷川幸雄、美輪明宏といった人々も同年生まれの演劇関係者である。
美輪明宏が三島、寺山の舞台で花開き、ミューズとなって両者を結び付けたことはよく知られている。
また、寺山が1977年にパルコ劇場のために台本を書き下ろし、演出した舞台「中国の不思議な役人」には大江の義兄である伊丹十三が出演しているし、それ以前には1962年に大江の小説「孤独な青年の休暇」を原作に寺山がシナリオを書いたテレビドラマが放映されている。
こうした交流関係は探そうと思えばそれこそ枚挙にいとまがないのに違いない。

そういえば、1967年に刊行された大江健三郎の代表作「万延元年のフットボール」の中に登場する「日本一の大女ジン」の奇矯なイメージは、同じく1967年に寺山主宰の演劇実験室◉天井桟敷が上演した「大山デブ子の犯罪」に登場する大女と共通するものだ。

このように大江文学を演劇的想像力から読み解くことは実に興味深いと思うのだがどうだろう。

宮沢賢治「カーバイト倉庫」

2023-03-29 | 読書
若い頃に読んだ小説や詩の一節でなぜか忘れられず、その文のリズムや言い回しに何とも言えない魅力を感じるものが誰にも一つや二つはあるのではないだろうか。
私にとって宮沢賢治の第一詩集「春と修羅」の中の「カーバイト倉庫」がまさにそうで、確か二十歳前の独り暮らしを始めた頃に読んで感銘を受け、その後、人生の移り変わりの折節にたびたびその詩の何行かが頭に浮かび、慰められるような気持ちになることがあったのである。

しかし、だからといってこの「カーバイト倉庫」が賢治の詩の中で大きな位置を占めているかというと、決してそんなことはないようなのである。
その証拠に、私の住んでいる街の書店でも入手可能な岩波文庫や新潮文庫、角川文庫の宮沢賢治詩集にはこの作品は収載されていないのだ。編者の目にはさして重要とも思われず割愛されてしまったのだろうか。
私は若い頃、この詩を中央公論社の「日本の詩歌第18巻」の宮沢賢治集で読んだのだったが、バカげたことに引っ越しを何度か繰り返すうちにこの本を紛失してしまっていていたのだった。
そうなると無性にこの詩をもう一度この目で読みたくなってきて、電子書籍やネット、図書館にある筑摩書房の宮沢賢治全集で見つけたのがこの詩なのだった。短いものなので全文を引用する。

  まちなみのなつかしい灯とおもつて
  いそいでわたくしは雪と蛇紋岩(サーベンタイン)との
  山峡をでてきましたのに
  これはカーバイト倉庫の軒
  すきとほつてつめたい電燈です
    (薄明どきのみぞれにぬれたのだから
     巻烟草に一本火をつけるがいい)
  これらなつかしさの擦過は
  寒さからだけ来たのでなく
  またさびしいためからだけでもない

      ※蛇紋岩(サーベンタイン)の( )書き部分は実際にはルビとなります

これを一読して思わず自分の目を疑ってしまったのだが、それは自分の記憶にあって慣れ親しんできたと思い込んでいた詩作品とはどこか違和感があったからだ。これは何かの間違いではないか、誰かが勝手に書き換えてしまったのではないかとさえ思ったほどだ。
何かが違う。言葉のリズムや微妙な言い回しが何だかぎこちないような気さえする。これは一体どういうことなのか。自分は何かに騙されているのではないだろうか。

それではと昔自分が読んでいた中央公論社の「日本の詩歌」を図書館で見つけ出し、その頁を慌ただしく繰ってみたのだが、期待はあっけなく裏切られ、そこにあったのは先に引用した詩そのものなのだった。
なかば茫然としながら、私は自分の記憶を疑うしかなかったのだが、その疑念はあっけなく晴らされることになった。

諦めきれないまま書店に足を運ぶたびに様々な版の賢治詩集を捲って見ていたある日、ハルキ文庫の「宮沢賢治詩集(吉田文憲編)」にそれはあったのだ。
そこに載っていた「カーバイト倉庫」は、上記の詩のさいごの五行が次の六行に置き換わっているのだ。それこそ私が求めていたものだった。

    (みぞれにすっかりぬれたのだから
     烟草に一本火をつけろ)
  汗といっしょに擦過する
  この薄明のなまめかしさは
  寒さからだけ来たのでなく
  さびしさからだけ来たのでもない

これだ、これなのだ、私が覚えていたのは! と思わず興奮してしまった。こうでなくては。絶対にこちらのほうが良いに決まっているではないか。
この違いは一体何によるものなのか、という疑念が当然のように湧いてきたのだが、それは解説文の最後に注釈として書かれていて、ハルキ文庫に収載されている「カーバイト倉庫」ほか2編の詩は、賢治が「春と修羅」初版本に自筆で手入れをし、宮沢家に所蔵されているものに拠るものということなのだった。
このことは賢治の愛読者には当然のように知られていることなのだろうか。つまりこの詩には、初版本によるものと賢治自身がのちに手を入れたものという異なるバージョンの2種類が流布されているということなのである。

しかしそれでは私が以前手にしていた中央公論社の「日本の詩歌」に載っていたはずの詩がいつの間にか入れ替わってしまったように思えるのはどういうことなのだろう、という疑念が残ることになる。
もう一度図書館で確かめると、私が所持していたのが昭和43年発行の初版であるのに対し、図書館にあるのは昭和54年に改訂された新版なのだった。
つまり、はじめは賢治が手を入れたものを載せていたのが、改訂版を出す際に手入れ前の形に戻したということなのだ。

なるほどと、謎は解けたようでほっとはしたものの、それでもどこかにわだかまりのようなものが残るのは、絶対に手入れ版のほうが格段に良いと私自身は思っているからなのである。
ハルキ文庫の編者である詩人の吉田文憲氏がわざわざこの詩の手入れ版を採用したのも、こちらの方が優れていると評価したからなのではないのだろうか。
これはまあ、ただの一読者の思い込みなのかも知れないけれど。

皆さんはどう思われますか?

記憶と捏造

2023-03-24 | ノート
昨年秋口から今年に入って2月中旬までの4か月間ほど、必要があって昔仕事で関わったあるプロジェクトのスタートから数年間の経緯を私なりの視点で書き残すという作業にかかりきりになっていた。
具体的に言うと、豊島区の西巣鴨にあった中学校跡施設を文化芸術の創造拠点として転用した《にしすがも創造舎》をNPO法人の人たちと協働で立ち上げた経緯を関係者の一人という立場で書くという作業である。
《にしすがも創造舎》そのものは2016年12月に惜しまれながらも12年間の活動に幕を下ろしてしまったのだが、その歴史的意義や影響も含め、どのように課題やアクシデントを乗り越えながら事業を進めていったかを記録として残すことには大きな意味があると思ったのだった。

問題はその立ち上げに取りかかったのがもう18年も昔のことで、細部の記憶が曖昧になっている部分が思いのほか多いということだった。
強烈な印象とともにはっきりと覚えている出来事もあれば、ぼんやりとしてはっきりしないこともあり、それこそまだら模様の記憶なのである。
そうした時に頼りになったのが公式の会議に提出した資料であり、さらにはそれを補完する手帳のメモや組織内で情報共有するために私が書き残しておいた議事録の類なのである。
むしろ公式のものよりも、メモ書きのようなものの方が記憶を喚起され、当時の胸の高まりや不安のようなものまでを含めて臨場感を持って呼び起こされるように感じ、大いに役立ったように思う。

しかし、それらはあくまで個人的なメモ書きでしかなく、それの正確性や真実性を証明する手立てはないのだ。
昨今話題の放送法の解釈変更に係わる総務省の行政文書同様に、それを捏造された記憶であると言い張る人が現れた場合、それを反証することはなかなか難しいと言わざるを得ないのである。

今回私が書き残した文章はあくまで一担当者の視点から書く、という前提付きだから良いようなものの、別の人々がそれぞれの立場や視点からまったく異なった物語を書くこともまた可能なのである。それを否定することは誰にも出来ないのだ。

人の数だけ思い出はあり、人の数だけ真実がある。
極論してしまえば記憶は捏造されるものなのである。

であるならば、すでに幕を下ろしてしまったはずのそのプロジェクトの事業の数々が、まだまだ活発に継続しているさまを想像することなど実に容易なことではないだろうか。
10年後あるいは20年後に私の捏造された妄想がいつの間にか真実に変容して歴史に刻まれていることもまたあり得ることなのだ、と私は一人ほくそ笑むのである。


映画を倍速で観るということ

2022-11-05 | ノート
映画を早送りで観る人たちが増えているそうだ。
ずばりそのもののタイトルの新書が話題を集めているという記事を何か月か前の新聞で読んだのだが、ことほどさように映画を1.5倍速や2倍速で視聴する人が増えているということなのだ。

そうした人たちの中には、映画やドラマの結末に関係なさそうな会話部分を飛ばしたり、事前にネタバレサイトなどをチェックしておいて重要な場面だけを部分的に見たりする人もいるらしい。

そう言われれば、ネットで不正投稿されている(らしい)のだが、1本の映画を解説とあらすじを20分間くらいの短縮動画にして紹介しているものがあって私もうっかり見てしまったことがある。著作権法上問題があるだけでなく、これを見てしまうともう本編を観なくても観たような気分になるという点で害悪としか言いようがない。

ここでキーワードになるのが「コストパフォーマンス」であり、時間を重要視する「タイムパフォーマンス」であるという。
昨今のお金にも時間にも余裕がない生活環境の先に、早送りという効率主義が広がったということなのだ。

しかし、映画は「時間芸術」という言い方があるように、作り手は冒頭から終わりまで1分1秒もゆるがせにせず、計算を尽くして映像を作っている。それを勝手に改編したり、省略したり、速度を変えて視聴するのは作品に対する冒涜でしかないだろう。

だが、それ以上に怖いのは、こうした鑑賞方法が当たり前になっていく風潮の中で、映画やドラマの制作者が逆影響を受けて、作品の質そのものが変わっていってしまうことだ。
このテンポじゃゆっくりし過ぎて視聴者が退屈するとか、よく練られたショットも余計だからカットしてもっと事件やアクションを増やそう、といった感じで視、聴者におもねった作品づくりが跋扈していってしまう。
これはとても恐ろしいことではないだろうか。

映画は作られたとおりの速度で、出来れば映画館で鑑賞するのが望ましい、芝居は配信や録画ではなく生の舞台で観劇するのが望ましいというのが、一応の本稿の結論なのだが、ここで少し逆張りになりそうなことを考えてみよう。
そんなこと、似たようなことはこれまでにも散々行われて来たのではないかという視点で考えてみるのだ。

例えば音楽でいえば、ポップスや歌謡曲のサビの部分だけを聴いたり、イントロだけ、あるいは歌詞の一番だけを聴いて次々に曲を変えて楽しむというやり方はありがちな方法だ。
クラシック音楽でもアダージョ楽章だけを集めたものや、第二楽章だけを収録したCDが売られていたりする。クラシックバレエの音楽の名場面集なんてものも一般的だろう。

歌舞伎でも通し狂言を上演するのではなく、忠臣蔵ならそのうちの人気のある場面だけを上演し、他の演目や舞踊と組み合わせて見せるのもごく一般的である。これは浪曲や落語でも行われている。

また文学の世界でも、詩集でいえば、いろいろな詩集からいくつかの作品をピックアップして編纂したものがある。
長編小説ではプルーストの「失われた時を求めて」のような長大な作品を抄訳という形で部分訳とあらすじ・解説を組み合わせて読ませる方法も昔からあるようだ。

出来るだけ多くの本を読むための「速読術」なるものがビジネスパーソンにとって必要なスキルとして認知されているのも、タイムパフォーマンスを重要視する現代の価値観においては当然のことなのだろう。

このようにいかに時間をかけず、手っ取り早く楽しむという方法は昔から様々に工夫されて現在に至っていると言えるのではないだろうか。
好むと好まざるに関わらず、技術の進歩や価値観の変化に伴って、芸術作品の楽しみ方も変化せざるを得ないのかも知れない。
生まれ落ちた時から片手にスマホを持ち、サブスクで音楽や映画を楽しむのが当たり前という世代が大人になる頃には、今では想像も出来ない鑑賞方法が一般化しているのだろう。

さて、ここでひとつ最後に触れておきたいのが、能楽についてである。

ご存知のとおり、能楽は今から600年も昔に世阿弥をはじめとする能楽師によって大成された舞台芸術であるが、その草創期の室町時代には今のような幽玄で荘厳な、ゆったりとしたテンポで謡われるものとはまるで違っていたと言われる。
猿楽や曲芸のようなものをルーツに持つ能楽は、その昔にはもっとテンポよく、時には観衆の笑いを呼ぶようなものであったらしい。

それがある時期、おそらくは徳川時代を境として忽然と上演形態が変わってしまったらしいのだ。
その理由がその時代の要請であったのかどうか、様々な理由があるのだろうが、現代の単にタイムパフォーマンスを重視する考えとは逆行する変化があったという事実は実に興味深いものと思えるのだ。


夢の変容装置と美しい爆弾

2022-10-27 | 日記
眠りながらいつでも見たい《夢》を見ることができたらいいなあと思う。これは子どもの頃からのささやかな願いだった。
その意味で《夢》は希望や願望と似通っているのだった。

いつも欲しいと思っていたオモチャが手に入って遊びまくる夢であるとか、あこがれていた女の子と手をつないでニコニコ歩いている夢であるとか、ご馳走を好きなだけ食べて満腹になる夢であるとか、その内容は年齢や自分が置かれた立場などによって様々に変化していったが、たいてい夢は思うように見ることが出来ないか、見たとしてもそれらはいつも奇妙な具合に変形してしまい、目覚めの瞬間、こんな夢なら見なければよかったのにと後悔するのがオチなのだった。

それならばいっそのこと、誰か、自由に見たい夢を見たいだけ見ることの出来る機械を発明してくれないものかと思ったのだが、どうだろう。
もちろん薬を服用することによる夢の操作という手段がないわけではないのだけれど、薬なるものを今ひとつ信用できない私には、かえって副作用による気分の落ち込みや依存症になってしまうことなどが心配のタネなのである。
それよりも見たい夢のシチュエーションやパターンを思いつく限り機械にインプットしておき、それらを組み合わせて脳波を刺激することで夢を喚起するといった手法のほうが牧歌的であり、どこかユーモラスなSFを想起させて面白いと思うのである。

これは一興ではないだろうか。

この機械の性能を発展させることで、例えばわれわれの心に巣くったネガティブな感情をポジティブなものに変換してしてしまうことが出来るのではないか。
いつもクヨクヨ気に病んでばかりいる人は陽気で笑い声が絶えないようになり、いつも死にたい死にたいと言っている人は元気でやる気満々の生活を送るようになる。
これは、マイナスとマイナスを掛け合わせるとプラスに変換するように、絶望感が多ければ多いほど、幸福度が増すように仕組まれた機械なのである。

さらに、ネガティブな言葉、否定的な言葉をポジティブで肯定的な言葉に変換してしまう翻案装置なんてものがあってもよいと思う。
こちらが発する言葉のネガティブなものを相手の喜ぶようなものに変換する装置である。当然、逆もまたあり得るだろう。
いくら悪口を言っても相手には肯定的に伝わるし、顔つきまで怒りの顔や苦虫を嚙み潰したような顔が、相手には心地よい笑顔となって見える……見えてしまうのだ。
これは政治や外交交渉の場ではきわめて大きな効果を発揮するに違いないのである。
けんか腰の交渉が、知らず知らずのうちに友好的で笑顔の絶えない社交の場に変換してしまうのだから。

不幸にして戦争になってしまった場合にも、武器弾薬を幸福を詰め込んだプレゼント爆弾に変容させる装置なんてものがあり得るとしたら、それこそノーベル平和賞レベルの発明である。

放射能を詰め込んだ「汚い爆弾」の代わりに、空中で爆発すると「幸福」をまぶした粉が降り注ぎ、その街に住む誰もが楽しくうきうきとして歌いだしたくなるような「美しい爆弾」を誰か作ってくれないものだろうか……

走れメロス / 約束と裏切り

2022-10-24 | 読書
教科書にも載って親しまれている太宰治の「走れメロス」は、暴虐邪知の王を糺そうとして囚われの身となったメロスが妹の婚礼に出るために友人セリヌンティウスを人質として故郷に帰ったのち、様々な困難を乗り越えて再び約束の刻限までに友人のもとに戻り、その二人の熱い友情は疑い深かった王の心をも変えてしまうという実に読後感のさわやかで感動的な物語である。

この物語を太宰はどのような心境のもとに書いたのだろうか。
それを計り知ることは難しいが、これを書くきっかけになったのではないかと言われている有名なエピソードが作家・檀一雄との間に起こった「熱海事件」である。
熱海で仕事をしている太宰を呼び戻すため夫人から預かった金を懐に檀一雄が逗留先の宿に向かうのだが、二人して遊興三昧で飲み続けスッカラカンとなってしまう。太宰は菊池寛のところに借金歎願に行くと言って壇を人質にして熱海をあとにするのだが、5日待っても、10日経っても音沙汰がない。
ノミ屋のオヤジに連れられて東京に向かい、太宰の師である井伏鱒二の家に行ったところが、太宰は井伏とのんびり将棋を指していた。
当然の如く壇は太宰に怒鳴ったのだが、この時、太宰は泣くような顔で暗く呟いたのだ。
「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」

「約束」という言葉の裏にはいつも「裏切り」がつきまとっている。この世の中で約束が果たされることはまずないからなのだが、そう言い切ってしまうと身も蓋もないのが社会というものである。

また、「約束」には暗黙のうちに「期待」が込められているとも感じて知らず知らず重圧を感じたりもする。あなたとの約束が守られることを期待していますよ、と言わんばかりの相手の笑顔がいつか脅迫めいた面相に豹変するのを想像しては逃げ出したくなる。
まあそれはいささか病的に過ぎるとしても、「約束」にはどこかそうした押しつけがましさがあるように感じるのだ。

では、自分が相手の「約束」に「期待する側」だった場合はどうか。
この場合、期待が外れたからといって相手に失望してしまっては社会的な軋轢を生んでしまう。この場合、期待すること自体がともすると反社会的だということになりかねない。すべては勝手に期待したこちらのせいなのだから。

もっとも良いのは、相手の「約束」を単なる社交辞令と考えて真に受けないことだ。社交は社会生活を円滑に運ぶための技術(テクニック)だからである。

社会を円滑に動かすために、人や会社、組織は「契約」という約束を形にしたものを取り交わすのだが、それを担保するのが法律=社会的ルールであり、それに違反した場合には時に罰則が科せられ、社会的信用が失墜してそこに居場所はなくなることさえあり得る。
「契約」は「約束」を公的に確実なものとすることで社会を円滑に運ぶための技術(テクニック)なのである。

ところで、政治家の公約は公になされた約束であるはずだが、その約束が真っ当に果たされたという話は一向に聞こえてこない。
誰もが政治家の公約はただの口約束でしかないと達観してしまっているのだろうか。
一方、英国のトラス首相は党首選での公約を果たそうとして混乱を招き、辞任を余儀なくされた。トラス氏の口約束に期待して彼女を党首に選んだのは保守党員であり、彼ら皆の選択ミスというしかないのだが、思わぬ事態に結果責任を問われたのは当の本人である。トラスは期待を裏切ったというのだ。
このあたり、なかなか難しい判断である。そもそも公約など反故にすべきだったのだろうか。
約束事に政治がからむと話は途端にややこしくなってしまうようだ。

さて、こうした「約束」に「友情」が合わさり綯い交ぜになると話はもっとややこしくなる。
私にもかつてあった青春時代に、そんな約束がこじれて友情を損なった苦々しい経験が山ほどある。それをいやな思い出としていつまでも抱えておくのではなく、それを反転させて、「走れメロス」のようにさわやかで純粋な胸の熱くなるような物語に昇華することができたらよいのになあといつも感じている。

「走れメロス」について太宰治は次のように述べている。
「青春は、友情の葛藤であります。純粋性を友情に於いて実証しようと努め、互いに痛み、ついには半狂乱の純粋ごっこに落ちいる事もあります」

悩むな! 考えろ!

2022-10-12 | 読書
坂井律子著「〈いのち〉とがん 患者になって考えたこと」(岩波新書)を読んだ。
たまたま書店で目について買った本で、いわゆる闘病記のようなものかと思いつつ読み始めたのだったが、刺激を受けるとともに、共感と向日性の意欲のようなものをかき立てられる思いがした。
読みながら付箋を貼り付けていったのだが、読み終わったあともその付箋の箇所を読み返したり、そこで感じたことを反芻したりして、なかなか書棚に収められないままいつまでも机の脇に置いたままになっているのである。

著者は1年10か月を過ごしたNHK山口放送局長としての単身赴任生活を終え、編成局総合テレビ編集長に着任して1か月が過ぎたばかりの時、体調不良が重なって受けた検査の結果、思いも寄らぬ膵臓がんと診断される。
手術は成功するが、「手術はスタートライン」の言葉どおり、著者はそれからの2年間、術後の激しい下痢生活、脱水での入院を経て再発、抗がん剤治療、再手術、再々発、再度の抗がん剤治療……と、「容赦なき膵臓がん」とともに生きることを余儀なくされてしまう。

本書は、その著者が、再々発が判明した2018年2月から11月までの間に書き綴った、《がんに罹った「私」の記録》なのである。
一人の患者が、がんになって感じたこと、思ったこと、がんになって学んだこと、疑問や時に抑えきれぬ憤りも含めて、身の内に湧き起った様々な思いが率直に綴られている。

著者の職業はテレビ番組の制作者であり、番組・作品を通して第三者である視聴者に何かを伝えることを使命としている。
そうした番組を作るうえで、より客観的で専門的な知見を盛り込むために必要なのが広範な取材であり、医学的学術的な裏付けに基づく専門家の見解であったりするのだろうが、本書において、著者がスタンスとしてこだわったのは、そうした伝達のプロフェッショナルとしての立場ではなく、あくまでも一人の患者としての視点を保つことであった。
どんな患者でもやろうと思えば出来る範囲の勉強や体験をもとに見聞きし、考えたことを書く……、そのことを通して当事者である患者一個人の思いを伝え、それを受信し、共感してくれた人々とともに考えながら、より多くの人が分かり合い、支援を受けられる社会になればいいという希望がそこには貫かれている。

こうした姿勢に基づいて綴られたこの本を読みながら、私は深く共感したし、教えられたり、刺激されたりすることばかりだった。
あくまでも一患者の立場にこだわりながらも、自分が受けようとしている治療について、使用される抗がん剤について、食事のあり方について、主治医と患者の関係について……、少しでも疑問に思い、知りたいと思ったことをとことん追求していく姿は、まさにテレビ番組の制作者、ディレクターとして培った力が十二分に発揮されていると感じる。

そうしたなか、友人が貸してくれたDVDで映画「アポロ13」を手術後の痛みを忘れるために見たという著者が、その映画から、ちょうどその頃考えていた「集学的治療」を想起し、さらに主治医と患者の関係に思いを寄せながら次のように書いた言葉には深く共感させられた。

「ひとつでない正解を探して、医師が患者に向き合って考えてくれるのであれば、患者もまた『考える患者』にならなければ……、と私は思った。そして、『絶体絶命』の病気と向き合わざるを得ない生活を、『考える』ことこそが支えてくれると実感していた。」

そしてこの言葉は、最終章の「あとがきにかえて 生きるための言葉を探して」のなかで紹介されている一挿話……、行きつけの小さいけれど硬派の近所の書店で目が釘付けになったという、人文書のすべてに付された真っ赤な帯に書かれた言葉につながるのである。
  「悩むな! 考えろ!」

たしかに! 悩むということは逡巡することであり、前には進めない。
悩んでいるひまがあったら「考えろ!」ということなのだ。

私たちは「考える」ための道具としての「言葉」を持っている。その道具をもっともっと使い勝手よく研磨するためにも、学び、考え続けることが何よりも重要なのだろう。
私は本書を読みながら、そうした生き方を実践した著者の姿に深く感銘を受けたのだった。

夏の日のシェード

2022-09-23 | 読書
ときたま無性に読みかえしたくなる小説というのがあって、いつもバスに乗るたびに思い出すのが田中小実昌の短篇「夏の日のシェード」である。

アメリカ西海岸のカナダとの国境沿いの町に、妻なのか恋人なのかはよく分からないのだが、年若いミヤという名の女とやってきた中年の男が、日々不機嫌になってベッドで眠ってばかりのミヤのことを思いやってはどうしたものかとオロオロするさまを男の目線から書いた小説である。
……と、こんな要約でよいのかとまことに心もとないのだが、オジンである「ぼく」は、まだ25歳くらいであるらしいミヤがいつまでも眠っていたり、町の図書館で借りてきた古い日本語訳の「カラマーゾフの兄弟」を読みふけったり、一緒にバスに乗って遊びに出ても窓の外に目を向けたまま黙りこくっているのを腫れ物にでも触れるようにただオロオロと見つめるだけなのだ。
ミヤが口を利くのは小説のなかでも二言三言くらいで、突然荷物をまとめて二ホンに帰ると言いだしたりする様子が男の独り語りを通して描かれるのだが、その実在感は実に生々しく、小説を読みながら私まで語り手の「ぼく」と一緒にどうしたものかとオロオロしてしまいそうになる。

もっとも「ぼく」の独白はまことに男目線そのものなので、そんなことだから彼女に愛想をつかされるんだよと言いたくもなるのだけれど、そこに得も言われぬ滑稽味と子供っぽさが同居していて、だからオジンはダメなんだよと思いながらも同調してしまうのだ。

小説の最後、出て行こうとするミヤを引き留めるために手助けを求めて「ぼく」は、友人でこの町に長く住む本川を呼び出す。
三人で椅子とソファにすわって黙りがちになりながら、本川がミヤに向かって、ともかく今夜は三人で半年前まで自分が板前をしていた日本レストランに行こうと何度も繰り返すというところでこの小説は終わるのだが、この場面はまるでジム・ジャームッシュの昔の映画のワンシーンのようで心に残る。



さて、先日、台風14号が関東をかすめて新潟から東北地方にぬけた日の午前中、
バスに乗って隣の町まで出かけて行ったのだけれど、車中から見る空の色がこれまで見たことがないような濃いグレーに染まっていて、それだけで非日常の世界に入り込んだような気がしたものだった。

台風の直撃はまぬがれたものの、その影響は明らかで、荒川を跨ぐ橋の上から見る川は水量が増して濁った色をなし、今にも膨れ上がりそうなエネルギーを孕んで禍々しさを感じさせる。
その上に広がる黒々とした灰色のキャンバスを背景として、どこからか洩れ出る日の光を反射して白く浮き上がったように林立する建物の壁面や電車の通る橋の鉄骨が美しい。
あいにくその瞬間を写真に撮ることは出来なかったのだが、まるでロードムービーの主人公にでもなった気分なのだった。

とある事情から私は毎週のようにバスに乗って県境を越えて隣の町まで出かけていくのだが、そのたびにささやかな旅情を感じるのを一人楽しんでいるのである。
毎度降車する停留所は決まっていて、それを逸脱してどこか知らない遠い町まで行くということはないのだけれど、「夏の日のシェード」の「ぼく」のように地図を片手にどこまでもバスに乗っているのも悪くはないのかも知れない。
傍らに黙りこくったままのミヤの手をにぎり、窓の外を流れる風景に見とれながら……。