映画「ヴィヨンの妻」を観たその日の夜、オフィスパラノイアの今昔舞踊劇「遊びの杜」を観劇。(作・演出:佐藤伸之。於:靖国神社特設舞台)
古事記をはじめ、日本書紀、今昔物語、宇治拾遺物語、御伽草子、さらには小泉八雲、太宰治などの作品から、「貧乏神と福の神」「幽霊滝」「博打うちの息子の婿入りの譚」「ろくろ首」「大井光遠の妹の強力の譚」「鳴釜」という6つの物語を舞台化、これに序として創作舞踊「三番叟」を加えた構成である。
ジャパニーズエンターテイメントというフレーズがパンフレットにあるように、日本的なものにこだわった舞台づくりを続ける主宰の佐藤氏とこの集団のコンセプトは、昨今の比較的若い演劇人のなかでは極めて異例ともいえる特徴と明解さを有しているといえるだろう。
その舞台の出来も高い水準を示していると評価できるものだった。振り、殺陣、所作、工夫を凝らした演出、セリフ術など、どれも長年の集団としての積み重ねが実を結びつつあると感じる。今後の方向性が何だか妙に気になりながらも、楽しみな集団なのである。
役者陣の中で、とりわけ秋葉千鶴子さんの語りはいつもながらに端整な佇まいと相まって美しく、観客を劇世界に引き込む力を持っていた。
ゲスト参加の「ひげ太夫」の2人の女優は私にとって初見ながら、舞台の床を跳ねるそのしなやかな音を聞けば力量のあることは十分に感じられる。
そうしたなか、今回私が特筆したいのは伊藤貴子の存在感である。
これまで10年以上関わって、断続的に見続けてきた彼女の舞台の中で、今回ほどはじけて、たくましく、可愛く、お茶目に遊ぶ彼女を観たことはないように思えるほどだ。
これが代表作というにはまだまだ早いのかも知れないけれど、これからが本当に楽しみな成長ぶりである。
さて、以上述べたように全体的に高いレベルにあることは間違いないのだが、さらに欲を言うならディティールをもっと大事にすることだろう。神は細部に宿るのである。
ちょっとした言い間違いや気の抜けた部分が全てを台無しにしかねない。
三番叟では扇の扱いでちょっとしたアクシデントがあったようだし、アンサンブルの乱れもあった。
以前、和泉流狂言師の野村万蔵がコンドルズの近藤良平と三番叟を競演した話を書いたが、劇場パンフの対談のなかで、近藤氏が「振りを間違うことはないのですか?」と訊いたのに対し、万蔵氏は笑いながらではあるが「間違っちゃいけないんです」と答えている。
当たり前のことではあるが、これは実は相当に厳しいことを言っているのである。
その昔、貴人方の前で舞った演能者に間違いは決して許されなかったであろう。それはすなわち死を意味していた。
そうした厳しさを自然のものとして身に着けた時、本当の役者が生まれ、芸術としての舞台が顕現するのだろう。
(大げさな物言いはお許しいただきたい。ひとのことはいくらでも言えるのだ。わが身を振り返れば恥ずかしくてならないのだけれど。太宰だったら少しはハニカメと言って怒ったかも知れない)
さて、今回は台風が舞台設営の日を襲い、設営と撤去を繰り返したのだと聞く。そんな苦労を経て創り上げた舞台は本当に美しいものだった。
ライトアップされて浮かび上がる神池と庭園の木々を借景とした舞台は、古来私たちの精神に深く眠る物語と感応しながら、忘れがたい記憶を観客の心に刻んだに違いない。
古事記をはじめ、日本書紀、今昔物語、宇治拾遺物語、御伽草子、さらには小泉八雲、太宰治などの作品から、「貧乏神と福の神」「幽霊滝」「博打うちの息子の婿入りの譚」「ろくろ首」「大井光遠の妹の強力の譚」「鳴釜」という6つの物語を舞台化、これに序として創作舞踊「三番叟」を加えた構成である。
ジャパニーズエンターテイメントというフレーズがパンフレットにあるように、日本的なものにこだわった舞台づくりを続ける主宰の佐藤氏とこの集団のコンセプトは、昨今の比較的若い演劇人のなかでは極めて異例ともいえる特徴と明解さを有しているといえるだろう。
その舞台の出来も高い水準を示していると評価できるものだった。振り、殺陣、所作、工夫を凝らした演出、セリフ術など、どれも長年の集団としての積み重ねが実を結びつつあると感じる。今後の方向性が何だか妙に気になりながらも、楽しみな集団なのである。
役者陣の中で、とりわけ秋葉千鶴子さんの語りはいつもながらに端整な佇まいと相まって美しく、観客を劇世界に引き込む力を持っていた。
ゲスト参加の「ひげ太夫」の2人の女優は私にとって初見ながら、舞台の床を跳ねるそのしなやかな音を聞けば力量のあることは十分に感じられる。
そうしたなか、今回私が特筆したいのは伊藤貴子の存在感である。
これまで10年以上関わって、断続的に見続けてきた彼女の舞台の中で、今回ほどはじけて、たくましく、可愛く、お茶目に遊ぶ彼女を観たことはないように思えるほどだ。
これが代表作というにはまだまだ早いのかも知れないけれど、これからが本当に楽しみな成長ぶりである。
さて、以上述べたように全体的に高いレベルにあることは間違いないのだが、さらに欲を言うならディティールをもっと大事にすることだろう。神は細部に宿るのである。
ちょっとした言い間違いや気の抜けた部分が全てを台無しにしかねない。
三番叟では扇の扱いでちょっとしたアクシデントがあったようだし、アンサンブルの乱れもあった。
以前、和泉流狂言師の野村万蔵がコンドルズの近藤良平と三番叟を競演した話を書いたが、劇場パンフの対談のなかで、近藤氏が「振りを間違うことはないのですか?」と訊いたのに対し、万蔵氏は笑いながらではあるが「間違っちゃいけないんです」と答えている。
当たり前のことではあるが、これは実は相当に厳しいことを言っているのである。
その昔、貴人方の前で舞った演能者に間違いは決して許されなかったであろう。それはすなわち死を意味していた。
そうした厳しさを自然のものとして身に着けた時、本当の役者が生まれ、芸術としての舞台が顕現するのだろう。
(大げさな物言いはお許しいただきたい。ひとのことはいくらでも言えるのだ。わが身を振り返れば恥ずかしくてならないのだけれど。太宰だったら少しはハニカメと言って怒ったかも知れない)
さて、今回は台風が舞台設営の日を襲い、設営と撤去を繰り返したのだと聞く。そんな苦労を経て創り上げた舞台は本当に美しいものだった。
ライトアップされて浮かび上がる神池と庭園の木々を借景とした舞台は、古来私たちの精神に深く眠る物語と感応しながら、忘れがたい記憶を観客の心に刻んだに違いない。