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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

山本周五郎を読むこと

2010-02-12 | 読書
 久しくまとまった読書から遠ざかっていたので最近はなにかというと近所の書店に入り浸ってそのたびに本を買い漁ってくる。それはよいのだが時間のやり繰りがずぼらな私はそれらの本を読み終わらないうちに新しい本が次々と机に積み上げられる態でため息ばかりつく破目になる。

 そうした新刊本を尻目にこの何日か読みふけったのが山本周五郎の短編小説だ。書棚の奥で紙の色が茶色く変色したような昔読んだ文庫本なのだが、大いに癒された。
 私が読んだのは黒澤明監督作品「椿三十郎」の原作でもある「日日平安」を表題作とする短編集で「しじみ河岸」「ほたる放生」「末っ子」「屏風はたたまれた」「橋の下」「若き日の摂津守」「失蝶記」などいずれも心にしみ込んでくる名品ばかりだ。
 山本周五郎の文章はなぜこんなにも心に響くのか。半世紀も前のそれも時代小説なのになぜその文体や手法がこんなにも新しく感じるのか。
 開高健はわが国の小説家で真にハードボイルドの文体を持っているのは山本周五郎だと言っていた。
 山本自身は海外小説をよく読んだようだし、理屈をこねる批評家は毛嫌いしたそうだが、若手の作家では大江健三郎や山口瞳を認めていた。
 そう思いながら改めてその小説を読み返すと、山本の文体にはヘミングウェイの短編小説や大江健三郎の初期の小説の文体と通じるものがあるようにも感じられる。
 「樅ノ木は残った」の冒頭の緊迫したシーンの積み重ねなど、ハードボイルドのお手本と言ってよいほどだろう。

 今回、私が初めて読んだのは「失蝶記」だ。事故で聴力を失った青年武士が、裏切った仲間の罠にかかって親友を切ってしまう悲劇で、その青年自身の語りと友人の許婚者の女性に宛てた書簡によって成り立っている。
 物語の背景に、奥羽同盟の中にあって仙台藩の圧力を感じながら王政復古派と佐幕派に二分した幕末の小藩という事情があり、先日私が関わった芝居の舞台とも重なって余計に興味深く感じられた。
 折に触れ、生きる力を与えてくれるその小説は汲めども尽きない魅力に満ちている。