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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

3・11

2011-03-25 | 雑感
 あの瞬間からすでに2週間近い時間が過ぎてしまった。あの日、3月11日の午後2時46分という日付と時刻を私たち日本人は忘れることはできないだろう。わが国の歴史上最大規模の地震と想像をはるかに超えた津波、そして原発からの放射能漏れという安全神話を根底から覆す事態は私たちの胸に深い傷となって刻印されたのだ。
 だが、そうしたある種の文学的クサミのある言い回しはどうでもよいことなのであって、問題は、今この瞬間にも被災状態は進行しているということ、組織的な支援の手が及びさえすれば確実に助かる命があるのだということ、逆に言えば、支援が届かないばかりに失われていくものがそこにはあるという事実なのだ。
 今ほど、私たち一人ひとりの行動や考え方、生き方やものごとへの対処の仕方が問われている時はないように思える。

 私はいまも四六時中、めまいでも起こしたように自分の身体が揺れているような感覚に捉われることがあるけれど、そうした思いは他の多くの人も感じているようだ。
 おまけにあれ以来、身体の一部に異常が生じてそれは今も癒えない。その身体の一部分がセンサーの役目を果たしているように、言葉にできない何かを感じているのだろうか。
 
 被災地の方々の思いはいかばかりだろう。

 いまこの瞬間、様々な言葉が飛び交っている。それは人々を勇気づけ、癒しもするけれど、時にはトゲのように、あるいは鋭利な刃物のように人の心に踏み入って深い傷を負わせたりもする。
 メディアの言説、無策な政権への批判、垂れ流される信頼できない情報、風評、失言、暴言・・・・・・。それらもまた言葉によって象られる。
 そうした言葉は否応なく耳に入り込んで私の中の黒々としたものを大きくする。
 耳を塞ぐべきなのかも知れない。よき言葉、人を励まし、力づけるような言葉こそが望まれる。
 私たちはなにをする? アートに,演劇になにができる?