seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

わからないということ

2011-06-04 | 雑感
 数日前の夜、夕食後のことだが、全身にジンマシンを発症した。
 もともとアレルギー体質ではあるのだが、これほどの腫れを伴う皮膚疾患はこれまでに経験がないことで我ながら驚いてしまった。
 それにしてもその日食べたものをいくら思い出しても原因となるものが思い当たらない。これまで長い時間をかけて蓄積されてきたアレルギーの因子が何かのきっかけで「噴火」したとしか思えないのだった。

 翌日、眠りから覚めたらキレイに治っていた、なんてことがあるはずもなく、顔の皮膚が赤くなって、おまけに瞼が腫れあがり、人相まで変わってしまったようなのだ。思いあまって駅近くの皮膚科専門の病院をネットで検索し、診察を受けることにした。
 訪ねた医院の医師によれば、蕁麻疹のおよそ70%は原因が分からないのだという。
「だから、血液検査のような無駄なことはやりません」と、冷静な顔で言う。
 結局、その症状を抑え鎮めることしかできないわけで、発熱の原因をさぐることなく、解熱剤を投与してただ熱を下げるというような治療しかない、ということなのだ。
 そんなものなのかなあ、と思いつつ、ステロイドを長い時間をかけて注射してもらい、アレルギー症状を抑える飲み薬として抗ヒスタミン薬を処方してもらった。
 
 ステロイドに即効性があるとは聞いていたが、これほどの効力があるとは!
 驚いたことに、注射してもらって2、3時間後には、あれほど全身に赤く水膨れのようになって発症していたものが、それこそマジックのようにきれいに消えてしまったのだ。
 それほど強い効果を持つということは、その副作用も強いのだろうな、と思いつつ、気持は浮き立つようだった・・・。

 気をつけなければいけないのは、その薬によって原因が取り除かれたわけではないということなのだ。この何が何だか分からないというのは不安なものだ。
 このことを現下の東日本大震災や福島の原発災害に結びつけていうことはあまり適切ではないかもしれないけれど、これらの抱える不安の大きな要因が「分からなさ」にあることは確かだろう。
 私たちは震災後の復興を語り、行動するけれど、自然のメカニズムが解明されているわけではない。自然災害の原因そのものが取り除かれているわけではないなかで生活を再建しなければならないことの不安は残り続ける。

 3日付の毎日新聞に反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠氏が寄稿している文章にこんな一節があった。
 「『よくわからない』というこのことが、今回の原発災害の特徴を決定づけている。どこまで有害なのかよくわからない、いつ帰れるのかよくわからない、食べても大丈夫なのかよくわからない。この『よくわからなさ』が、福島県内外の避難者はもとより、多くの人たちの去就を決定不能にし、宙づり状態にしている。宙づりにされているのは現在の職・住を含む生活総体と、未来に及ぶ。」

 この分からなさととことん付き合いつつも、さまざまな問題や課題の要素を冷静に腑分けしながら対処し、未来に向けての行動を一つひとつ積み重ねていくことが求められる。
 そのためには明確な論理や心に響く言葉が何よりも大切であると思うのだが、いまの政治にそれを求めることはできないのだろうか。
 ペテン師とピエロは小説や芝居の世界ではヒーローだが、この現実の世界では唾棄すべき存在に成り果てたかのようだ。
 その「わからない」言葉や論理が人々に絶望やあきらめしかもたらさないとすれば、「最小不幸社会」をめざしたはずのこの国の不幸が、それこそ「最大値」に極まったとしか言いようがない。