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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

血の婚礼

2011-07-04 | 演劇
1日、にしすがも創造舎体育館特設劇場にて、Bunkamura大規模修繕劇団旗揚げ公演と銘打った舞台、「血の婚礼」を観た。
 作:清水邦夫、演出:蜷川幸雄、出演:窪塚洋介、中島朋子、丸山智己、田島優成、近藤公園、青山達三、高橋和也、伊藤蘭ほか。

 周知のようにガルシア・ロルカの同名戯曲に清水邦夫がインスピレーションを得て執筆された作品で、すでに幾度も蜷川演出によって再演を重ねているのだが、実を言うと私は今回が初見である。1993年に銀座セゾン劇場で上演された際には、知人の大石継太が北の弟を演じていたというのに。
 四半世紀にもわたって再演を繰り返される作品というのは幸せだが、それだけの普遍性とともに、時代を照射する光源の強さをこの戯曲は持っているということなのだろう。演出家もまたその都度、戯曲を読み替え、読み直し、時代の感性や言葉と切り結んできたはずなのだ。

 いわゆる通常の劇場ではない空間で繰り広げられる劇世界にはこれまでとは違った緊迫感や現実感が満ち溢れていたに違いない。
 とりわけ3・11後の世界に生きる私たちにとって、この舞台には実に多様な意味=暗喩が満ち満ちているように思える。
 あまり作品を大震災にばかり引き付けて解釈することは望ましいことではないと思いつつも、作品全体を包み込む、無念のうちに死んでいった人たちへの鎮魂の思いに胸が熱くなる。

 誰とも知れない交信不能の相手に向かってひたすら言葉を発するトランシーバーの少年は、ネット社会のコミュニケーションのあり様を反照射しつつ、SOSを発しながらその声の届かぬことを悲嘆する被災地の人々を思わせずにはいないし、劇の半分以上の時間、舞台上に降り続ける激しい雨は津波に呑み込まれた世界を否応なく想起させるだろう。
 突然の闇の中、蝋燭の灯りだけで演じられる後半の舞台では、一気に雨のやんだあとの静寂の中、囁き声すらがくっきりとした輪郭を持ち、言葉は研ぎ澄まされた力を持って観客の胸を抉る。それは、原子力の事故によって電気の途絶した世界を思わせるようだ。
 雨と光の中を行進する少年少女鼓笛隊は、行方不明となった死者たちの魂を送る葬列のようでもあり、災厄の訪れを知らせる伝令のようでもある。
 それら、数え上げれば限りのない多様な意味を超え、無辜の民の詠嘆を群像劇として、さらには舞台上に現出するイメージとして具体化した蜷川演出は今もなお青春の血なまぐささを湛えながら輝いている。
 忘れ難いものとしていつまでも記憶に残るだろう舞台に立ち会うことの充実感に満ちた時間だった。