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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

無防備映画都市

2011-09-30 | 演劇
 24日(土)、「無防備映画都市―ルール地方三部作・第二部」を豊洲公園西側横野外特設会場で観た。作・演出:ルネ・ポレシュ、舞台美術:ベルト・ノイマン、製作:フォルクスビューネ、ベルリン。フェスティバル/トーキョー11の演目の一つである。
 晴海運河に面した豊洲の広大な空き地に出現した「映画撮影所=チネチッタ」で男女5人の映画クルーが撮影を始める……。

 本作はその副題にあるように、2008年から10年にわたって、ルネ・ポレシュ、ベルト・ノイマンらによって一年に一作ずつ、ドイツ西部にあるミュールハイム・アン・デア・ルールという人口約16万人の町で上演された作品の一つである。
 上演パンフレットによれば、ルール地方は、炭鉱地域・重工業地帯として19世紀後半の急激な経済成長を支えてきた地域であり、1970年代からの石炭需要衰退による失業など産業構造の変化を受けた社会問題が、西ドイツで最もはっきり表れた地域であるという。
 作品の中で引用されるのは、ロッセリーニの一連の映画「無防備都市」(1945年)、「戦火のかなた」(1946年)、「ドイツ零年」(1948年)のいわゆる「戦争三部作」であり、フェリーニの「81/2」といった映画の数々であり、それらに触発される形でこの作品は創られている。
 正直に言って、言葉を理解できない私には、字幕とスクリーンに映し出された映像、実際の舞台セット、俳優たちの動きを同時に捉えることができず、当然ながら作品の全容を把握し理解することは困難なままだ。
 にもかかわらず、この作品が忘れ難い印象をもたらしたと思えるのは、音楽や台詞のリズム、絶妙のセットを含めたロケーション、そして何よりも俳優たちの自在な演技がそれだけの力を持っていたということなのだろう。
 2005年3月に世田谷パブリックシアターで観たフォルクスビューネ・アム・ローザルクセンブルク・プラッツによる「終着駅アメリカ」(東京国際芸術祭TIF)を思い出すが、以来、私はドイツ演劇の俳優たちの演技に深く魅せられている。
 そういえばあの時の舞台美術もまたベルト・ノイマンだったのだ。

 本作は、過去の映画を補助線として現代の社会的問題を浮き彫りにしながら、多様な視点と手法によって怒りや哄笑を喚起しつつ、思索を深める作用を観る者にもたらす。
 同時に、荒廃したルール地方の何もない場所に現れた舞台セットがその地域の人々と観客との交流をも生み出す効果をもたらしたという。
 その創り手たちのもくろみは果たしてこの東京・豊洲でもなし得たのだろうか?

 そんなことを考えていて、ちょうどいま読んでいる「デザインの教科書」(講談社現代新書)に触発される部分があった。その本の中で著者の柏木博は次のように言っている。(以下、一部抜粋要約引用陳謝)

 ・・・・・・20世紀後半は、マーケットの論理によってデザインが実践された面が強い。
 20世紀に広がった市場は、「大量消費」を目指す歴史的に例のない市場だ。消費社会の拡大である。
 「マーケティング」は、市場を人工的に組織するための実践的活動として20世紀に出現した。
 マーケティングによってデザインが決定されるという現象が20世紀末には、きわめて強くなり、人々の消費への欲望がテーマになってしまった。
 その結果、使い捨てられるデザイン、スクラップ・アンド・ビルドのデザインが広がった。
 スクラップ・アンド・ビルドのデザインは、消費社会の市場を活性化させているが、それは廃棄物を増大させ、またエネルギー消費を増大させ続けている。
 低コストだと主張されてきた原子力発電は、設備そのもののコストも膨大であるが、廃棄物の処理に法外なコストがかかる。
 フランスの思想家ポール・ヴィリリオが指摘しているように、機械装置は、かならず故障と事故がつきものである。そして、原発に事故や故障が起こったときには、通常の市場経済では考えられないほどのコストと健康被害を生むことになる。
(以上、引用)

 ベンヤミンはものの廃棄に目を向け、そこに歴史を読みとろうとしていたそうだが、たしかに私たちの排出したボロや屑のなかには私たち自身の人生が埋め込まれているのだろう。さらに言えば、私たちの文明=世界が埋め込まれていると言ってもよいかも知れない。

 この作品を観ながら、豊洲公園から運河越しに眺める東京のビル群は借景として美しすぎるようにも思われたのだが、そこが埋め立てられた土地に構築された都市であることに思い至る時、その光景はまるで違ったものに思えてくる。
 目の前で繰り広げられる舞台セットの側から私たち観客席を見たそのはるか後方には夢の島コロシアムがあり、数日前に観たばかりの「宮澤賢治/夢の島」のあの光景が重なって見えるのだ。
 ゴミの廃棄場所だった夢の島で繰り広げられた「わたくしという現象」「じめん」を背景としてこの「無防備映画都市」に重ね合わせたとき、そこに現れるのは、紛れもない私たちの世界がいま置かれている状況にほかならないのである。
 2つの作品は互いにつながり合い、呼応し合っていたのだ。

 このたびの震災の被災地の多くは、古い産業を抱え込み、過疎化傾向にあった地域だという。そうした地域の問題もまた、ルール地方の抱える社会的背景と重なり合っているのだろう。そう考えると、本作はまさに、いま、この日本でこそ上演されるに相応しい作品だったのだと感得されるのである。

 さて、大量の廃棄物を生む消費者たる「大衆」の娯楽としての「映画」というものをこの作品は補助線としていると改めて思いながら、戯れにそうした目論みをこの日本において試みようとした場合、どんな映画作品が思い浮かぶだろうかと考える。
 黒澤明の「野良犬」あるいは「酔いどれ天使」か、それに「生きものの記録」を加えてよいかも知れない。
 さらにもう一つ、黒澤の晩年期の作品「夢」がある。それが発表された時、あまりに素朴で真っ直ぐな映画表現に何となく物足りなさを感じたものだが、改めてその中の「赤冨士」や「鬼哭」を思い出すと、それらが原子力発電所の爆発によって荒廃した世界を描いた、映画の発表から20年後の現実世界を予兆した作品であったことに今さらながら粛然とさせられる。

 そんなことを思いつつ、自身が創ろうとする舞台のことを夢想する。「無防備映画都市」は、そんな楽しみをも与えてくれる忘れ難い作品なのだった。