seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

願わくば

2012-12-06 | 雑感
 十八代目中村勘三郎逝去の報が昨日早朝から駆け巡った。もしや、との思いは断片的に聞こえてくるこれまでの報道からも払拭できずにいたのだったが、いざその報せを耳にすると、まさか、との驚きが胸をいっぱいにした。
 私など、何のゆかりもないような人間があれこれ口にすることではなく、また、これから歌舞伎・演劇界にとどまらず、幅広い分野の友人、著名な人々がその人となりや芸の話をするのだろうけれど、やはり自分と同年代の役者の死には悲哀とも何とも言えない喪失感を抱いてしまう。
 素晴らしい俳優だったのは間違いないが、まだまだ円熟には年若く、これからあと少なくとも20年は舞台の花を咲かせ続けてもらいたかったと誰しもが口惜しく思ったに違いない。
 西行法師の「願わくば……」のように、彼もまた、願わくばせめて舞台の上で死にたいと思ったであろうか。

 進取の気性に富んだ彼は、新しいものを積極的に取り入れることで自らの拠って立つ歌舞伎界そのものを活性化させようとしていたのだろう。
 そのことはちょっとした踊りの型や所作の一つひとつにも及んでいたようで、彼に踊りを教えていたある日の先代勘三郎が「おいおい、オレの目の黒いうちは教えたとおりにやっとくれよ」と言ったのは有名な話だ。
 串田和美、野田秀樹、渡辺えりら、小劇場系の作家や演出家とも果敢にコラボし、ジャンルを問わず、映画やテレビドラマ等でも活躍した彼だが、その姿は何よりも歌舞伎という様式の中でこそ美しく輝いていた。
 映画フィルムやDVDは後世に形あるものとして伝えられるけれど、舞台上で光を放つその本当の姿は、私たちの記憶の中にしか残らない。

 同時代を生きて、子役だった勘九郎ちゃん時代からテレビ等でその成長の過程を目にし、共に歩んできた立場からも、彼の存在は他のどの俳優とも異なる身近なものだった。
 もっとも身近な場所で彼を見たのは、もう15年以上も前のことだろうか、雑司ヶ谷鬼子母神の境内で、唐十郎の紅テント芝居を観た時のこと、すし詰めの観客席で、お姉さんの波乃久里子さんや女優の吉田日出子さんたちと一緒に、舞台下に掘った池の中から飛び出してきた水びたしの唐十郎にやんやと喝采を送っていた。その楽しげで羨ましそうな顔が印象的だったが、その体験がのちの平成中村座につながっていったのだろう。
 次に見たのは、数年前、知人の女優Yさんが中村勘三郎と藤山直美が二枚看板の新橋演舞場の舞台に出ていて、その楽屋に会いに行った時、ちょうど次の仕事に出かけるのか、遊びにでも行くのか、急いで出てきた勘三郎さんとすれ違い、一瞬妙な間があって二人きりになり、ふと目が合った。

 ただそれだけのことなのだが、先方はこちらのことを知りもせず、こちらだけがそのことをいつまでも記憶にとどめている。
 こんなことは誰にもあるのに違いないが、そこから何か物語を構想することができるだろうか。
 何か、彼には借りがあるような気もして、そんなことをふと考えたりもするのだ……。
 合掌。