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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

正岡子規のこと

2020-07-13 | 読書
 大江健三郎は「日本語全体に関わる革新者」(「子規はわれらの同時代人」昭和55年)として正岡子規を高く評価した。また、書生の兄貴として子規を慕った司馬遼太郎は、文章日本語を作ろうとした子規の仕事にとりわけ共感を示した(「文章日本語の成立と子規」昭和51年)。
 以上は、以前にも触れたことのある坪内稔典著「正岡子規 言葉と生きる」(岩波新書)からの引用だが、この本をたまたま読んで子規のことがより身近な存在になったのは確かで、もっともっと子規のことを知りたいと思うようになった。ということで、坪内氏の著作をもとに、少しばかり子規のことをメモしておくことにする。

 正岡子規は、俳句・短歌・文章における文学上の革新者であり、ジャーナリストとしてスケールの大きい行動の人でもあった。明治という時代にあって、与謝蕪村や万葉集を再発見し、それらを高く評価するとともに、自らが新聞記者を務める新聞紙上においてその価値を広く発信した。さらに、文学革新を後世に継ぐ多くの後継者を育てた教育者でもあった。
 当時、蕪村の作品集そのものが見つからず、懸賞をかけて「蕪村句集」を探すことにしたという。子規は、明治30年4月から11月にかけて「俳人蕪村」を新聞「日本」に連載したが、その中の文章に「百年間空しく瓦礫とともに埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村とす。」という一節がある。これは句集も手に入らないくらい世間から忘れられていた、ということであるが、とても面白いエピソードだ。

 さて、明治22年5月9日の夜、突然に血を吐いた子規は、翌日医師から肺病と診断された。その深夜、時鳥という題で四、五十句の俳句を吐いたという。その年の9月に書かれた「啼血始末」にその一部が載っている。
 「卯の花をめがけてきたか時鳥」
 「卯の花の散るまで鳴くか子規」
 卯年生まれの子規は自らをこの句に詠み込んでいるのだが、坪内氏によれば、この字義どおりの意味のほか、この句にはもう一つの意味があって、それは自分に肺病がとりついた、ということだという。さらに、2番目の句には、卯の花の散る、すなわち自分が死ぬまで肺病は活動する、という意味が裏にある。
 明治になって急増した肺病は、当時不治の病であった。
 「子規という名も此時から始まりました」と彼は「啼血始末」の中で告げているが、子規は、明治22年5月10日の深夜、この世界に登場した。これ以降、子規は10年の余命を意識して生きることになるのである。
 子規の最初の喀血は21歳の時であり、亡くなったのは34歳であったから、子規としての活動は13年に及ぶのだが、明治29年、28歳の時には臥辱の日が多くなったといい、およそ活動期の半分は病床においてなされたものだ。病状の悪化や一時重体に陥りながらも、子規の重要な業績の多くがこの病床から生まれたことは驚くべきことである。

 子規といえば、夏目漱石との交友関係がよく知られているが、二人の書簡をまとめた「漱石・子規往復書簡集」(岩波文庫)を読むと、その出会いとその濃密な友情はまさに奇跡と言いたくなるほどだ。
 漱石と子規の出会いは明治22年1月で、最初の喀血の4か月前のことになる。5月13日に漱石は友人と子規の病床を見舞い、その足で医師のもとを訪ね、子規の病状や療養法を問うている。そして帰宅後に子規宛の最初の書簡を投函しているのである。漱石が詠んだ最初の俳句である2句を添え、只今は一大事の時と、入院加療を力説した内容である。
 漱石は5月25日にも子規の病床を見舞い、子規の「七草集」に「評」を付して返却しているが、同評に初めて「漱石」と署名している。つまり、二人の交友が始まった明治22年は、子規と漱石が誕生した年でもあったのである。
 この往復書簡に見られるように漱石と子規の交友は、単に厚い友情というだけではなかった。ある時は相手を痛罵するかのような批判を投げかけ、また別の時には寸鉄人を刺すような批評を書簡において展開した。当然、その根底に相手に対する深い信頼と愛情があればこそなのだが、勢い、二人の関係はより深まり、より濃密なものとなっていったのだろう。
 明治34年11月6日、子規は漱石宛の最後の手紙を書いている。漱石はその前年の秋からロンドンに留学していた。
 「僕ハモーダメニナッテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思ヒツイテ特別ニ手紙ヲカク。」
 これはその手紙の書き出し部分であるが、何とも胸に迫るものがある。坪内稔典氏は、この手紙を読むたびに泣いてしまうそうだが、ロンドンの漱石はこれをどのような思いで読んだことだろう。

 さて、子規は子規山脈と称せられるような自身を頂点とする多彩な人間関係を築き上げたが、それは子規自身の人たらしともいうべき人間的魅力によるところが大きいのだろうが、何よりも自分の余命を限った覚悟のようなものがある種の執念となって、文学上の改革を次の時代に継承していく人材を見つけ、育てていこうとする力になっていたと思える。
 司馬遼太郎の対談集「八人との対話」に大江健三郎との対談「師弟の風景」が収載されている。正岡子規と吉田松陰の二人をとりあげて、教育者としての二人について考えるという趣旨の対談なのだが、その中で紹介されている高浜虚子の文章が面白い。
 子規は自分の生の短さを知って、自分がやろうとしている俳句についての革新が頓挫することを怖れ、その仕事を弟分である虚子に押しつけようとするのだが、文士になること夢見る虚子は逃げ回るのである。
 「余はいつも其事を思ひ出す度に人の師となり親分となる上に是非欠くことの出来ぬ一要素は弟子なり子分なりに対する執着であることを考へずにはゐられるぬのである。たとへば其は母が子を愛するやうなものである。」
 
 しかし、師弟関係というものは一方的な片思いでは成立しないものだろう。師からの呼びかけなり執着に応える弟子もまた何らかの影響を師にもたらすのではないだろうか。その双方向の関係を築く基になるのが対話であり、そこから醸成される愛情や友情にも似た精神的絆というものなのかも知れない。
 「松陰は新しい時代そのものを創ろうと思っていたでしょうし、子規は文学を改革しなければならないと考えていた。そのために若い人と一緒に、それも友人のような関係をたもちながら、対話しつつ彼らを教育していく。そういうタイプの人が、子規であり松陰であったはずだと思うんです。(大江)」

 「(松陰も子規も)二人とも死期を知っている人間で、その切迫感がまわりに集まってきた連中から何かを引き出していく。(司馬)」という面は確かにあったろうが、師を頂点として形成された濃密な人間関係の”場”そのものの魅力が多くの人材を惹きつけたのに違いない。
 私自身はそうした他人との関係に極めて淡泊なたちで、人から何かを教わるのも嫌いだし、友情にも一定の距離をおこうとするイヤなタイプの人間なのだが、一方で、子規を中心とした”場”には抗しがたい吸引力を感じてしまう。それこそが正岡子規の魅力なのかも知れないのだが。

 子規が正岡子規として誕生したとき、彼自身は自らの余命を10年と見定め、自分に与えられた残り時間を常に意識しながらも、明るく、大らかに生き抜き、その生を燃焼し尽くした。病を手枷足枷とし、痛みに耐えながらも達成した業績の大きさには驚嘆するしかない。
 もし、身体が頑健で病を得ていなければ、彼には別の夢があり、進みたいと願う道があったはずで、子規は私たちの知る子規ではなかったかも知れない。病が子規に人生の時間を区切り、行動範囲や可能な活動の条件を限ったなかで、子規自身のやむなく選び取ったのが、俳句・短歌・文章の改革だったことは、後世の私たちにとって僥倖だったというしかないのだけれど。

 個人的なことだが、私自身、思いもかけない病を得て、自分に残された時間というものをいやでも意識するようになった。当然、やりたい仕事や実現したい夢もあるのだが、それが叶わない現状のなかで、ともすれば絶望的になりがちな精神状態を制御しつつ、今の自分に出来る何かを探るという作業はそう容易いことではない。
 その意味においても、子規はモデルとなる先行例であり、彼が残した作品群は、時に私をなぐさめ、時に鼓舞してくれるカンフル剤なのである。

 最後に一つ。
 子規は進取の気性に富み、さまざまなアイデアを思いついては実行した。「墨汁一滴」という文章の新形式もその一つで、これを思いついたのは明治34年1月13日のことだった。
 「墨汁一滴」とは、一行以上二十行以下の文章、つまり、筆に一度だけ墨をつけて、それで書ける長さの文章ということで、長い文章を自分で書く体力を失った仰臥の子規が編み出した独自の文章の形式なのである。
 子規はこの「墨汁一滴」を「わらべめきたるもの」と表したそうだが、「…一行以上二十行以下のこの形式は、意外にもどんなものでも描けたのではないか。…多様な対象を描くことが可能な文章、それを子規は手にしているのだ(坪内)。」
 「墨汁一滴」は、明治34年1月16日から7月2日まで日本新聞紙上に連載されたが、その内容をみると、俳句や短歌論、作品評、自作の俳句や短歌、社会批判、自分の病状や暮らしぶりなど、実に多様な対象を柔軟に描いている。

 「墨汁一滴」は、今で言えばまさにTwitterをはじめとするSNSそのものではないだろうか。
 正岡子規が現代に生きていたらどうだったろうということをよく考えるけれど、今のこの世相を斜めに見た彼がSNSや最新の情報ツールを駆使してどんな声を発信したか、それを想像するだけで胸が躍るのはおそらく私だけではないはずである。