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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

すべって転んだ

2021-08-16 | 日記
 朝、雨はやんでいる。出かけようとして、居住している集合住宅の1階に降りたところで、用事を思い出し、もう一度部屋に戻るついでに郵便受けの新聞を取りに行こうとして、そうだ、今日は新聞休刊日だった、と思い直して振り返った瞬間に足を滑らせて転倒してしまった。一瞬何が起こったのか分からないのだが、床面が濡れていて滑りやすくなっていたらしい。誰にも見られていなければよいのだが、と思ったその時、後ろから「大丈夫ですか?」と管理人のKさんがさほど心配もしていない様子で訊いてきた。どうやら一部始終を見られていたらしい。その場は笑ってごまかしたものの、後になって手首と右の足首、膝が少しばかり痛んでいる。
 以前、母親がよく近所に買い物に行っては途中で転倒したという話を聞いては、「何でまたそんなところで転ぶんだよ」と𠮟りつけるように言ったものだが、自分がいつの間にかそんなふうに、いつどこで転ぶか分からない年齢になってしまっていたのである。最近コロナの影響もあり、外出を控えるようになって散歩の機会も減ってしまい、足腰が弱っているのは間違いないのではあるが。
 何故か梶井基次郎の「路上」を読みたくなった。中学だか高校の国語の教科書に載っていた短い小説だが、時たま無性に読みたくなることがある。雪が降った時に必ず読みたくなるのも同じ作者の「泥濘」である。どちらも泥や雪に滑って転ぶ場面が出てくる。

 用事を済ませてから、図書館に立ち寄る。スーザン・ソンタグ「サラエボでゴドーを待ちながら」と小泉八雲「心」(平川祐弘個人完訳コレクション)とCDを借りる。

 昨夜はスーザン・ソンタグ「隠喩としての病」を読んだのだが、本書はソンタグ自身の癌体験を踏まえて書かれたエッセイである。訳者、富山太佳夫氏のあとがきには「結核と癌という二つの病を取り巻く言語表現のテクストを読み解きながら、そこにひそんでいる権力とイデオロギーの装置を解体してしまおうとする努力」とある。ソンタグがめざしたのは「人間の体に起こる出来事としての病はひとまず医学にまかせるとして、それと重なりあってひとを苦しめる病の隠喩、つまり言葉の暴力からひとを解放する」ための批評なのである。
 すでに43年も前の著作であり、病気に対する治療も当時とは比較にならぬくらい進歩しているはずだが、自身が病を得た身となって読んでみると、なかなか面白く首肯するところが多い。治療が進歩しているとは言え、先の見えないなかで、どうしても自分の置かれた状況を物語化したり、運命論に偏った妄想を抱いたりしてしまう、そうした虚妄を客観視し、解体する力を本書は今も持っているように感じるのである。