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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

古い船をいま動かせるのは

2021-09-05 | 言葉
 「ミネルヴァの梟は迫りくる黄昏に飛び立つ」という、ドイツの哲学者ヘーゲルの有名な言葉がある。
 ミネルヴァはローマ神話の知恵と芸術の守護神であり、そのミネルヴァに仕える梟は、世界中の知識を集め、一つの時代が終焉を迎え、古い知恵が黄昏を迎えたときに飛び立つというもの。



 この言葉の解釈は様々あるようだが、私としては、一つの文明や時代、既存の価値や概念が終わりを迎えようという黄昏時に、過去を見定めて次の時代に向かう、という考え方が一番しっくり来るように思える。
 (ヘーゲルは違った意味合いでこの言葉を書いたようなのだけれど)
 今はまさに時代の転換期であり、これまでのグローバル経済や成長を追い求める経済重視の考え方が行き詰まりを迎えている。そうした時に、知恵と芸術という二つの目から歴史を見定め、私たちはどんな未来に向かうことができるのだろう。

 吉田拓郎が半世紀も前に作った「イメージの詩」が、稲垣来泉ちゃんという10歳の少女によってカバーされ話題になったのは最近のことだが、その歌詞のなかの、「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」という一節がもう何年も前からずっと気になっていた。
 この言葉をどう解釈すればよいのだろう。
 ごく単純に考えれば、古い体制、古い組織を動かせるのは、これまでその舵取りを握ったきた古い人たちではない、ということなのだが。では、古い人たちとは誰を指しているのか。

 先ほどの歌詞に続くのは、「なぜなら古い船も新しい船のように新しい海へ出る/古い水夫は知っているのさ/新しい海のこわさを」という言葉なのだが、意味深ではある。
 古い体質の組織も新しい時代に乗り出さなければならない。しかし、古い人たちは新しい海のこわさを知っている。だから、新しい人たちがその船の舵取りをすべきだ、ということなのだろうか。
 だが、その新しい人たちには船を動かすための技術や知見は備わっているのか、ただ古いものを否定し、新しいというだけで舵取りを任せることが果たして妥当なのか、古いものと新しいものの違いとは一体何なのか……。
 考えれば考えるほど分からなくなってしまう。

 この数日、秋の気配が濃厚になると同時に、にわかに政局の慌ただしい風が吹き始めるようになって不穏である。その風向きにばかり気を取られて、目の前の舵取りばかりに夢中になっていると、ことの本質=本当に向かうべき目的地を見失いそうでならない。
 ミネルヴァの梟が見定め、飛び立った方向に思いを寄せたいものだ。