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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

遊びをせむとや生まれけむ

2023-11-07 | 日記
今年の夏は文字どおり記録破りの暑さで、気がついたら7月から9月いっぱいの3か月間、連日猛暑を記録したのだった。
その余熱のようなものが今も居座っているのか、すでに11月になり、明日は立冬で暦の上では冬だというのに、東京都心の今日の最高気温は27.5度を示し、実に100年ぶりの記録なのだという。

 「あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風」

これは松尾芭蕉の句で、秋になったのをそ知らぬ顔に、西日が赤く強く照りつけている意であり、残暑の心を詠んだものだそうだが、まさにここ数日の日射しは季節外れの強さで肌に突きささってくるように思える。



さて猛暑の3か月間、近所の公園からも、保育園の園庭からも子どもたちの遊びに興じる声がぱたっと途絶えてしまい寂しく思っていたのだが、10月に近くなってようやく走り回る子どもの姿を目にし、その歓声を耳にするようになった時はとても嬉しく感じたものだ。

こうした子どもの姿や声にはこちらの身体の奥底の情動に直接働きかける力があるようで、いつも思い出すのが、平安後期の今様歌謡を集めた「梁塵秘抄」のなかの有名なこの歌である。

  「遊びをせむとや生まれけむ
   戯れせむとや生まれけむ
   遊ぶ子どもの声聞けば
   我が身さへこそ揺るがるれ」

この歌の解釈には実は様々あるようなのだが、もっとも素直に読むならば、遊びにこそ人間本来の姿があるのであり、そうした遊びに興じる子どもの声を聞けばこの我が身もまた自然に突き動かされるようだということだろう。

子どもの本分は遊ぶことである。子どもたちには何ものにも邪魔されることなく、恐怖や貧困、病や飢えといった社会的状況から無縁に心ゆくまで楽しく遊ぶ権利があるのだ。そうした環境をつくり、子どもを守るのは大人たちに課せられた義務なのである。

子どもたちの声を聞きながら、青く澄んだ秋空を見上げていると、この空がどこまでも広がり、遠い国の困難な状況にある子どもたちの頭上の空と直につながっているということを思い知らされる。

その頭上を飛び交うのが無情なミサイルや空爆機などではなく、平和な鳥たちの姿へと変換する方法はないものだろうか。
無力を嘆くのではなく、何が出来るのかを考えたい。