何と・・・馬橇の歴史は、ロシアからとは「再発見」でした。
明治時代の話です。
見聞によりますと、黒田清隆がロシアを視察した折に「馬車・馬橇」を購入して北海道独自の馬橇を制作しようとしたが、上手くいかずサハリンから橇の製作技術者「馬橇・ペチカ製造の三名」を雇ったとあります。「明治11年12月」
「ペチカ製造職人」と「ロシア式住居」を建設した職人がいたはずですが、調査不足で判明しません。
函館日露交流史研究会のHPより転写
005年09月30日
明治初期におけるロシア型馬橇の導入について 関秀志
研究の目的
北海道における生活文化形成史を民具の面から見ると、(1)先住民族アイヌの民具、(2)府県からの移住者・出稼者等がもたらした日本各地の伝統的民具、(3)外国から流入した外来民具、(4)それらが改良され、あるいは北海道で独自に考案された北海道的民具の4種に大別することができる。
(3)の外来民具の中で注目すべきものに、明治初期に開拓使によってロシアから導入され、その後さまざまな工夫と改良が加えられて、(4)の北海道的民具になったロシア型馬橇がある。
明治初期における開拓使の欧米技術文化導入政策がアメリカからの移入に重点が置かれていたことは周知のとおりであるが、その中にあってロシアからの馬橇の導入は北海道の民具発達史上極めて重要であるばかりでなく、日露文化交流史の上からも注目されてよいと思われる。
私の研究は、ロシア型馬橇導入の背景とその経過、開拓使による製作とその後の普及・改良について明らかにしようとしたものである。
導入の背景
開拓使は開拓政策の一環として道路の建設に力を注いだが、特に冬期の交通・運輸を確保するために、馬橇に注目した。開拓使の最高顧問だったホ-レス・ケプロンも橇による運搬の便利なことを説いている。
導入の経過
明治7年(1874)開拓使は樺太支庁を通してロシア人から「馬雪車」(馬そり)と「曳馬鉄沓」(蹄鉄)を購入、翌年札幌の工業局器械場で製作を始めたが、台木の先端を曲げる方法がわからず失敗をくりかえす。明治11年8月~10月に黒田開拓長官がウラジオストクを視察した際にロシアから「木製橇」を贈られ、「乗橇」1台を購入した。さらに同年12月彼は樺太のコルサコフに出張し、橇と住宅を視察、ロシア人職工3人を雇って帰る。こうして、ロシア型馬橇の製作事業が軌道に乗った。
ロシア人職工の雇用と職務
明治11年12月、イワノフ、ハモトフ、ノウパシン(セルメンツオフから変更)の3人とコルサコフで契約。期間は当初1年間だったが、ノウパシンは都合により12月10日まで、他の2人は13年6月まで延長となった。往復の旅費、住宅は支給、月給は50円で、労働時間は日曜・休日以外は毎日8時間である。彼等の職名は木工職・木工教師で、主としてロシア型の車橇製作とペチカ付丸太組家屋の建設指導に従事した。
製作事業と利用
ロシア型馬橇の製作は明治11年12月から本格化するが、同年8月から開拓使廃止直前の15年1月までの製作台数は439台(荷橇420、乗橇19)である。この事業はその後、工部省札幌工業課、農商務省北海道事業管理局札幌工業事務所に引継がれ、明治19年に北海道庁が設立されると廃止された。
開拓使・北海道事業管理局は製作した橇を民間に払下げた他、これらの馬橇を利用し、明治12~13年に札幌・小樽間、14~17年に札幌・室蘭間の輸送事業を実施している。
ロシア型馬橇の特色
ロシア型馬橇の構造的特色を日本在来の橇のそれと比較すると次のとおりである。(1)左右の2本の台木を蒸籠に入れてふかし、その先端を曲げること。この鼻曲げ作業は最も高度な技術を要する。(2)台の上に片方5個、左右10個の束木をたてること。(3)左右の束木および台木の先端にわたす横木として柴木(若木の細い丸太)を用いること。この柴木も蒸籠でふかし、柔らかくして束木や台木に巻き付ける。柴木を巻き乾燥するとよく締まって橇が丈夫になる。このことから、ロシア型馬橇は後に柴巻馬橇と呼ばれた。(4)台木の裏側に鉄板を張り付けて、橇の滑りを良くし、台木の磨耗を防いだこと。
ロシア型馬橇の改良と普及
札幌の官営工場での橇製作事業が廃止されると、職工たちが独立して開業し、そこで修業した職人たちが開拓地域の拡大と共に全道各地の市街地に進出した。
農耕馬の増加にともない馬橇は増加の一途をたどり、昭和15年頃には12万5000台を超えた。
ロシア型馬橇の構造と製作技術の伝統を最もよく謳歌したのが札幌型馬橇(柴巻馬橇、図2参照)で、昭和10年代には全道の馬橇の約70%を占め、北海道の代表的な馬橇となった。
その分布地域は、次に述べる函館型馬橇の分布地域を除く道内であるが、日露戦後、南樺太が日本領になるとロシア型馬橇のふるさとであるこの地方にも普及した。
一方、北海道の旧開地である函館地方では早くからわが国の在来型の橇が使われていたが、馬橇の製作は札幌よりおくれ、その構造や製作技術も札幌型とは異なるものが成立した。
台木の先端を高く曲げ、束木を立てるのはロシア型の影響を受けているが、台木は薄く、柴木は用いず、金具を多く用いて組立てる、この函館型馬橇は函館の経済圏であった道南の渡島・檜山地方地方や十勝・釧路・根室地方の太平洋沿岸部に分布する。
また、ロシア型馬橇の影響は青森地方にも及んだ。青森型馬橇は一見函館型馬橇に似ているが、台木の先端はふかして曲げるのではなく根元の曲がった木を利用している点に特色がある。台木を曲げる技術は津軽海峡をこえることがなかったのである。
今後の研究課題
1870~80年代におけるロシア極東地域の馬橇の実態、開拓使が招いた3人のロシア人職工、函館型・青森型馬橇の成立時期の解明が残された課題である。
「会報」No.12 1999.5.20
明治時代に、馬橇の製作をロシア人に依頼していた事実は新たな発見です。
ロシアから引き繋がれた技術は、函館・札幌・青森型に改良されて北海道に普及されたものです。
北海道では、大正時代には13000台もの馬橇が使用されていたそうです。
図 ロシア式馬橇を札幌式に改良した原型図
明治時代の話です。
見聞によりますと、黒田清隆がロシアを視察した折に「馬車・馬橇」を購入して北海道独自の馬橇を制作しようとしたが、上手くいかずサハリンから橇の製作技術者「馬橇・ペチカ製造の三名」を雇ったとあります。「明治11年12月」
「ペチカ製造職人」と「ロシア式住居」を建設した職人がいたはずですが、調査不足で判明しません。
函館日露交流史研究会のHPより転写
005年09月30日
明治初期におけるロシア型馬橇の導入について 関秀志
研究の目的
北海道における生活文化形成史を民具の面から見ると、(1)先住民族アイヌの民具、(2)府県からの移住者・出稼者等がもたらした日本各地の伝統的民具、(3)外国から流入した外来民具、(4)それらが改良され、あるいは北海道で独自に考案された北海道的民具の4種に大別することができる。
(3)の外来民具の中で注目すべきものに、明治初期に開拓使によってロシアから導入され、その後さまざまな工夫と改良が加えられて、(4)の北海道的民具になったロシア型馬橇がある。
明治初期における開拓使の欧米技術文化導入政策がアメリカからの移入に重点が置かれていたことは周知のとおりであるが、その中にあってロシアからの馬橇の導入は北海道の民具発達史上極めて重要であるばかりでなく、日露文化交流史の上からも注目されてよいと思われる。
私の研究は、ロシア型馬橇導入の背景とその経過、開拓使による製作とその後の普及・改良について明らかにしようとしたものである。
導入の背景
開拓使は開拓政策の一環として道路の建設に力を注いだが、特に冬期の交通・運輸を確保するために、馬橇に注目した。開拓使の最高顧問だったホ-レス・ケプロンも橇による運搬の便利なことを説いている。
導入の経過
明治7年(1874)開拓使は樺太支庁を通してロシア人から「馬雪車」(馬そり)と「曳馬鉄沓」(蹄鉄)を購入、翌年札幌の工業局器械場で製作を始めたが、台木の先端を曲げる方法がわからず失敗をくりかえす。明治11年8月~10月に黒田開拓長官がウラジオストクを視察した際にロシアから「木製橇」を贈られ、「乗橇」1台を購入した。さらに同年12月彼は樺太のコルサコフに出張し、橇と住宅を視察、ロシア人職工3人を雇って帰る。こうして、ロシア型馬橇の製作事業が軌道に乗った。
ロシア人職工の雇用と職務
明治11年12月、イワノフ、ハモトフ、ノウパシン(セルメンツオフから変更)の3人とコルサコフで契約。期間は当初1年間だったが、ノウパシンは都合により12月10日まで、他の2人は13年6月まで延長となった。往復の旅費、住宅は支給、月給は50円で、労働時間は日曜・休日以外は毎日8時間である。彼等の職名は木工職・木工教師で、主としてロシア型の車橇製作とペチカ付丸太組家屋の建設指導に従事した。
製作事業と利用
ロシア型馬橇の製作は明治11年12月から本格化するが、同年8月から開拓使廃止直前の15年1月までの製作台数は439台(荷橇420、乗橇19)である。この事業はその後、工部省札幌工業課、農商務省北海道事業管理局札幌工業事務所に引継がれ、明治19年に北海道庁が設立されると廃止された。
開拓使・北海道事業管理局は製作した橇を民間に払下げた他、これらの馬橇を利用し、明治12~13年に札幌・小樽間、14~17年に札幌・室蘭間の輸送事業を実施している。
ロシア型馬橇の特色
ロシア型馬橇の構造的特色を日本在来の橇のそれと比較すると次のとおりである。(1)左右の2本の台木を蒸籠に入れてふかし、その先端を曲げること。この鼻曲げ作業は最も高度な技術を要する。(2)台の上に片方5個、左右10個の束木をたてること。(3)左右の束木および台木の先端にわたす横木として柴木(若木の細い丸太)を用いること。この柴木も蒸籠でふかし、柔らかくして束木や台木に巻き付ける。柴木を巻き乾燥するとよく締まって橇が丈夫になる。このことから、ロシア型馬橇は後に柴巻馬橇と呼ばれた。(4)台木の裏側に鉄板を張り付けて、橇の滑りを良くし、台木の磨耗を防いだこと。
ロシア型馬橇の改良と普及
札幌の官営工場での橇製作事業が廃止されると、職工たちが独立して開業し、そこで修業した職人たちが開拓地域の拡大と共に全道各地の市街地に進出した。
農耕馬の増加にともない馬橇は増加の一途をたどり、昭和15年頃には12万5000台を超えた。
ロシア型馬橇の構造と製作技術の伝統を最もよく謳歌したのが札幌型馬橇(柴巻馬橇、図2参照)で、昭和10年代には全道の馬橇の約70%を占め、北海道の代表的な馬橇となった。
その分布地域は、次に述べる函館型馬橇の分布地域を除く道内であるが、日露戦後、南樺太が日本領になるとロシア型馬橇のふるさとであるこの地方にも普及した。
一方、北海道の旧開地である函館地方では早くからわが国の在来型の橇が使われていたが、馬橇の製作は札幌よりおくれ、その構造や製作技術も札幌型とは異なるものが成立した。
台木の先端を高く曲げ、束木を立てるのはロシア型の影響を受けているが、台木は薄く、柴木は用いず、金具を多く用いて組立てる、この函館型馬橇は函館の経済圏であった道南の渡島・檜山地方地方や十勝・釧路・根室地方の太平洋沿岸部に分布する。
また、ロシア型馬橇の影響は青森地方にも及んだ。青森型馬橇は一見函館型馬橇に似ているが、台木の先端はふかして曲げるのではなく根元の曲がった木を利用している点に特色がある。台木を曲げる技術は津軽海峡をこえることがなかったのである。
今後の研究課題
1870~80年代におけるロシア極東地域の馬橇の実態、開拓使が招いた3人のロシア人職工、函館型・青森型馬橇の成立時期の解明が残された課題である。
「会報」No.12 1999.5.20
明治時代に、馬橇の製作をロシア人に依頼していた事実は新たな発見です。
ロシアから引き繋がれた技術は、函館・札幌・青森型に改良されて北海道に普及されたものです。
北海道では、大正時代には13000台もの馬橇が使用されていたそうです。
図 ロシア式馬橇を札幌式に改良した原型図