n45-50

ロシア・サハリンと北海道を結ぶ架け橋ネット。
サハリン州には。、ロシア人もウクライナ人も住んでいる混住地域です。

東日本大震災 被災地報告 Ⅳ 稲宮康人氏 

2011-06-14 07:35:06 | 情報

 気仙沼町
 仙台まで夜間高速バス、一ノ関まで普通の高速バスの乗り継ぎで一ノ関駅着。そこからレンタカー。まずは気仙沼へ。
海側の地域で瓦礫の片づけがすすんでると一見して判る場所もあれば、3ヶ月経つのにまだこの状態か、と思わせる場所もある。
 小蝿がものすごく多く体中にまとわり着いてきて、かゆい。川では大型クレーンで川底にたまった瓦礫の引き上げもしているが、まだ家や車がそのまま放置されている。「ここの近所で死体は見つかったんだけど、車が今日やっとみつかった、これでもかなり片付いてきてるんですよ。前はここは瓦礫の山になっていて入れなかった」

 水産関連の工場が立ち並んでいたであろう地区は、地盤沈下も激しく、3時くらいには側溝をつたって海水が湧き出してきていて、砂利を積んでかさ上げしていない場所に大きな水溜まりに変わっていく。
 5時を過ぎると作業していた車両も内陸に戻り、私と同じ様な野次馬がたまにやってくる程度。海との際からは土嚢の隙間から浸水してきて、道の一部はどんどん水没していく。満潮がこんなに怖いものとは思わなかった。
 45号沿いのコンビニが数軒営業中でかなり繁盛していた

 気仙沼 2
 火事がひどかった鹿折地区は片づけがかなり進んでいたが、焼け跡の上に立つとまだ臭いが残っている。鹿折・唐桑駅前には大きな船がまだ、でん、と居座っている。

 気仙沼から45号沿いに南下、標高が少しあがるので被害がなくなり地震前の普通の世界がまだあるが、階上へと下っていくとまた景色が一変。標高が下がると津波に襲われた地域が現われる風景がずっと続く。やっぱり運転していても、しんどい。
 本吉町の小泉大橋は流されてしまい、今復旧中。
45号沿いには長閑な田園風景が広がっていたみたいだが、今はなにかの残骸が点々とちらばるヘドロに埋め尽くされた風景が眼前に広がる。

 南三陸町
   歌津、志津川、共になにも残っていない街。中心部では鉄筋の大きな建物の残骸以外はかなり撤去が進む。
流された家がそのまま残っているような場所はあまりないが、家を壊した後の瓦礫の多くがそのまま山になっている。

 鉄骨だけになり、漁網が巻きついた防災庁舎は震災名所のようになっていて、ボランティアを終えた人などが次々にやってきていた。先月に比べてボランティアの姿をよく見るようになってきた。

 海側の土地は夕方前から潮があちこちからしみだしてきて危険な状態。取り壊した自宅跡地を見に来た男性が、津波から逃げた時のこと、自宅の被害について語ってくれる、なにか地震時から気を張り続けていて、無理に快活な状態にしているように感じた。この後、気が緩んだ時が心配になった。

 陸全高田市
 かつて街だった場所にはほとんど何も残っていないので、日曜で作業が休みということもあり、街中は人の気配がほとんどない。たまに、見物の人がゆっくりと車を走らせたり、警察が巡回しているくらい。
家の跡地で何かを探していたりする人はもうあまり見かけない。

 潮が引いている時に野球場に渉って撮影するも、撮影を終えて陸地に戻ろうとたら、かなり潮が満ちている。軽くパニック。
まだそんなに深くはないので、浅瀬を靴を脱いで裸足で戻ることにする。

 なんとか渉り終えるも、足の裏を見るとかなりの傷。靴を脱いだことを激しく後悔。が役に立たず。車にあったお茶で傷口を洗って、絆創膏を貼る。その後も少し撮影するが、痛くてまとも歩けない。医者も何もここには何も無いので、明日も撮影の予定だったが、まとも歩けもしないし、帰宅することにする。レンタカー屋に連絡し、一ノ関まで戻り、最終新幹線で帰宅。

 家に帰って傷口を見るとぱんぱんに腫れてるので、深夜だったけど、川崎市立多摩病院に行って。消毒と破傷風の注射。終わったら2時くらい。

 女川町 
足の具合と天気を勘案して昨日行くことに決めたので朝一の新幹線で贅沢に向かう。今日から東日本パスが使えるので自由席ものすごい混雑、通路は立ってる人でいっぱい。

 仙台でごっそり人が降りて、私は次の古川まで。
 早速石巻経由で女川に向かう。石巻は4月頭に比べると国道沿いの瓦礫や車はかなりかたづいていた。全壊の家などは未だ放置されているが、かなり秩序が戻ってきた感じがする。被害が軽微だった地区のスーパーもコンビニもファミレスもかなり再開している。

 女川は万石浦の側から少し標高が上がり、峠を越したあたりから風景が一変。一面なにもなくなる。
中心部の(原発の交付金のおかげもあり)立派だったであろう鉄骨むき出しの無数の建物や津波に基礎からひっくり返された建物が立ち並ぶゴーストタウン。高台にある学校からブラスバンドの練習の音が届く他は、瓦礫を撤去する重機の音や、カラスやホトトギスの鳴き声が響くだけ。
小蝿がいっぱい飛んでいる。
 2時46分にはアナウンスと共に町中の作業が止まり黙祷。もう3ヶ月かぁ。

 石巻町
 女川町から少し戻って石巻市渡波地区に。
石巻市中心部から東に向かって捜索を進めているようでやっとこの地域に到達。まだ自衛隊の人や警察・消防がいっぱいいる。

 女の子(多分、孫)を背負って散歩していた細身のおじさん「ここらへんはだれも住んでいないねぇ。
1階は津波で2階に住んでいるだけど。リフォームとかしたいけど業者がいないしねぇ。ここは一番遅いねぇ。
電気と水道は来たけど、ガスはまだだね。都市ガスだからねぇ。
先のことを考えると暗いことしか考えられなくなるから、先のことは考えないようにしてるんだ。」なんだかすごい寂しそうに、でも冷静に、話してくれた。

 3ヶ月という時間の経過で、落ち着いて今の状況をリアルに捉えられるようになってきたように見えた。
国道からは家の2階だけに電気が灯っている家がかなり見えた。

 夕飯は石巻市内のすき屋でさっとすませる。前回は真っ暗な街だったが、今はロードサイド店の看板も、家の光も輝いている。
同じ市内でもかなり差が出てきたように見える。

 道の駅「上品の郷」で温泉に入る。
津波取材で夜風呂に入れるのは初めて。
道の駅には全国各地のナンバーをつけたボランテァアやら仕事の人やらの車が大量に駐車&宿泊していた。
 
 サハリンマンコメント
 稲宮氏は、色々と複雑な心境で被災地を訪れていると考えます。
被災地の映像記録を撮影する事の思いは、何なのか。
今後、遠い将来 この記録は活かされるのか・・・ 。

 マスメデァが報道しない視野からの報告を続けている稲宮氏の姿勢に感謝。
 将来的に「この写真から何かが視えて来る」と考えます。
 サハリンマン
コメント
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