色丹グループとは、何・・・!
ロシア「旧ソ連邦時代」で活躍していた若い画家が、1966年-1991年の間に色丹島を訪れて絵画のモチーフにしていた。
背景は、色丹島には当時缶詰め工場が操業されていて「大陸各地からの出稼ぎ者」が大勢いた。 その中には、若い娘もたくさんいて島は賑わいていた。
色丹島の景色と労働力が、一体化された絵画は、ソ連政府も買い上げたり美術館に展示するなど画家の活躍を支援してもいた。
当時の島では、平均年収もロシア大陸に比べて40~50%も高く人気もあった。
「境界と風景画 色丹グループの活動 1966-1991年」
セミナーが開催されます。
ソ連時代、色丹島では多くの若い画家たちが、夏の数か月を過ごし、風景画を描いていました。
色丹島から眺める国後島・爺々岳の独特な山容は、こうした画家たちのシンボルマークになっています。
東洋一ともいわれた魚類加工場で働く若い女性労働者たちの肖像も、数多く残されています。
ソ連にとっての最果ての地、国境の風景を描くことの意味について考えます。

日時 2011年6月27日 16時30分から18時
会場 北海道大学 スラブ研究センター4階 大会議室
講師 谷古宇 尚 准教授 「同大 文学研究科」
参加自由
サハリンマン

背景は、色丹島には当時缶詰め工場が操業されていて「大陸各地からの出稼ぎ者」が大勢いた。 その中には、若い娘もたくさんいて島は賑わいていた。
色丹島の景色と労働力が、一体化された絵画は、ソ連政府も買い上げたり美術館に展示するなど画家の活躍を支援してもいた。
当時の島では、平均年収もロシア大陸に比べて40~50%も高く人気もあった。
「境界と風景画 色丹グループの活動 1966-1991年」
セミナーが開催されます。
ソ連時代、色丹島では多くの若い画家たちが、夏の数か月を過ごし、風景画を描いていました。
色丹島から眺める国後島・爺々岳の独特な山容は、こうした画家たちのシンボルマークになっています。
東洋一ともいわれた魚類加工場で働く若い女性労働者たちの肖像も、数多く残されています。
ソ連にとっての最果ての地、国境の風景を描くことの意味について考えます。


日時 2011年6月27日 16時30分から18時
会場 北海道大学 スラブ研究センター4階 大会議室
講師 谷古宇 尚 准教授 「同大 文学研究科」
参加自由
サハリンマン