ルース・ベネディクトの古典的名著「菊と刀」によると日本は恥の文化だそうだ。西洋文化が罪という絶対的価値基準に基くのに対して日本文化は恥(=他者の目)という相対的価値評価に基く、とのことだ。
罪という妄想よりは恥という現実のほうが少しはマシだとは思うが、他者の目を基準にすることは決して好ましいことではない。最も重視すべきなのは自分による自分に対する評価だろう。
自分にさえ分からない真意を、他者が理解できる筈が無い。他者に分かるのは表面的な言動だけでありその意図は勿論、真意など理解できる訳が無い。こんな他者による評価を行動基準にすれば必ず矛盾に陥る。
良かれと思ってやったことが酷い結果を招いて酷評されることは多いし、悪意に基く行為が思いがけず評価されることもタマにはある。
他者の評価とはいい加減なものだ。ではなぜこんな他者の評価が重視されるのだろうか。社会生活のためだ。信頼関係が築かれなければ円滑な社会生活は不可能だ。誰も強盗や殺人犯とは同席したくない。悪党ではない、という評価は社会生活を営むためには欠かせない。しかしそれは消極的な価値だ。他人による評価を、自分による自分に対する評価よりも優先すべきではない。他者の目を最優先せざるを得ないのは芸能人や政治家などの人気商売の人だけだ。それ以外の人は自分による評価を重視すべきだろう。
罪という妄想よりは恥という現実のほうが少しはマシだとは思うが、他者の目を基準にすることは決して好ましいことではない。最も重視すべきなのは自分による自分に対する評価だろう。
自分にさえ分からない真意を、他者が理解できる筈が無い。他者に分かるのは表面的な言動だけでありその意図は勿論、真意など理解できる訳が無い。こんな他者による評価を行動基準にすれば必ず矛盾に陥る。
良かれと思ってやったことが酷い結果を招いて酷評されることは多いし、悪意に基く行為が思いがけず評価されることもタマにはある。
他者の評価とはいい加減なものだ。ではなぜこんな他者の評価が重視されるのだろうか。社会生活のためだ。信頼関係が築かれなければ円滑な社会生活は不可能だ。誰も強盗や殺人犯とは同席したくない。悪党ではない、という評価は社会生活を営むためには欠かせない。しかしそれは消極的な価値だ。他人による評価を、自分による自分に対する評価よりも優先すべきではない。他者の目を最優先せざるを得ないのは芸能人や政治家などの人気商売の人だけだ。それ以外の人は自分による評価を重視すべきだろう。