俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

恥の文化

2012-10-10 13:51:33 | Weblog
 ルース・ベネディクトの古典的名著「菊と刀」によると日本は恥の文化だそうだ。西洋文化が罪という絶対的価値基準に基くのに対して日本文化は恥(=他者の目)という相対的価値評価に基く、とのことだ。
 罪という妄想よりは恥という現実のほうが少しはマシだとは思うが、他者の目を基準にすることは決して好ましいことではない。最も重視すべきなのは自分による自分に対する評価だろう。
 自分にさえ分からない真意を、他者が理解できる筈が無い。他者に分かるのは表面的な言動だけでありその意図は勿論、真意など理解できる訳が無い。こんな他者による評価を行動基準にすれば必ず矛盾に陥る。
 良かれと思ってやったことが酷い結果を招いて酷評されることは多いし、悪意に基く行為が思いがけず評価されることもタマにはある。
 他者の評価とはいい加減なものだ。ではなぜこんな他者の評価が重視されるのだろうか。社会生活のためだ。信頼関係が築かれなければ円滑な社会生活は不可能だ。誰も強盗や殺人犯とは同席したくない。悪党ではない、という評価は社会生活を営むためには欠かせない。しかしそれは消極的な価値だ。他人による評価を、自分による自分に対する評価よりも優先すべきではない。他者の目を最優先せざるを得ないのは芸能人や政治家などの人気商売の人だけだ。それ以外の人は自分による評価を重視すべきだろう。 

主観世界

2012-10-10 13:32:42 | Weblog
 同じ事象であっても人々の知覚は様々であり、それに対する認識は更に千差万別となり、その解釈に至っては無数にあり得る。つまり知覚・認識・解釈の段階を経ることによって、当初の事象とは全く違ったものが主観世界には刷り込まれる。
 織田信長は京料理が嫌いだったそうだ。公家は活動的ではないので余り汗をかかず塩分摂取の必要性が低い。一方、信長は味の濃い尾張料理に幼少から馴染み、活動的で汗を流すから塩味を好む。このように状況の違いが味覚の違いを生む。空腹は最高のスパイスと言われるように、同じ人であろうとも状況の違いによって味覚が異なる。
 味覚以外の知覚も人によって大いに異なる。鬱状態の人には世界は暗く澱んだものであり、躁状態の人には喜びに満ちたものと感じられる。同じことが起こってもその人の心理状態によって全く違ったものとして知覚されるし、それに対する認識や解釈は様々だ。
 周囲の変化を望むよりも自分の精神状態を整えることのほうが遥かに重要だ。快活でしかも落ち着いた精神状態を保っていれば無闇に妬んだり恨んだりすることなく周囲を正当に評価できる。他人にとやかく言うよりも自分を磨くことのほうが大切だ。自分を磨けば知覚される世界も豊かなものとなる。