俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

小便器

2014-10-04 10:12:49 | Weblog
 ある商業施設の男性用トイレで驚いた。手摺の付いた小便器が1番目ではなく2番目にあったからだ。これはコロンブスの卵のような素晴らしい発想の転換だ。どこのトイレでも障害者用の手摺付き小便器を1番目に設けている。これは障害者の負担を減らすためだ。しかし実際に使われることは少ない。私自身、障害者が手摺付き小便器で用を足している姿を見たことが無い。たまに使われることもあるが使用するのは常に健常者だ。
 1番目に手摺付き小便器があれば健常者は2番目の小便器を最も多く使う。そうすると1コマ開けた4番目と6番目の使用頻度が高くなる。これでは障害者に遠慮したために健常者に無駄を強いることになる。滅多に使われることの無い障害者用小便器を2番目に据えることは健常者の利便性を高める。1・3・5番目の小便器の使用頻度が高まるからだ。
 私は決して少数者に我慢を強いらせたい訳ではないが、滅多に使われない障害者用小便器を1番目にする必要は無いと思う。2番目であっても極端に不便になる訳ではない。少しは不便であっても許容範囲だろう。
 弱者を守るべきだということに異存は無い。しかし必ずしも最優遇する必要は無かろう。手摺付き小便器を2番目に設置するということはこのことに対する1つの答えだろう。
 弱者に優しい社会が、健常者に不便を押し付ける社会であるべきではなかろう。使用頻度が極端に少ない手摺付き小便器を最も便利な位置に鎮座させることは健常者に余計な負担を強いることになる。両者にとって最も合理的な形が求められるべきだろう。弱者優遇がしばしば不合理な仕組みを作る。部分ではなく全体を見ることが必要だ。全体最適という基準で見直せば、手摺付き小便器は2番目の位置に設置することが最も合理的だと私は思う。
 勿論これは一般的な商業施設の話だ。障害者や高齢者が多く集まる施設であれば総ての小便器を手摺付きにすべきだろう。施設は利用者のニーズに合わせるべきだ。
 弱者保護と過保護の線引きは難しい。生活保護もしばしば過保護になっている。適切な優遇こそ望ましいということを、2番目に設置された手摺付き小便器を見て大真面目に考えさせられた。
 

一粒の麦

2014-10-04 09:38:27 | Weblog
 「一粒の麦、もし地に落ちて死なずばただ1つにあらん。死なば多くの実を結ぶべし。」(「ヨハネによる福音書」より)
 多くの人と同様、私もこれを利他主義の勧めと解釈している。但し私は利他主義を好まない。少なくとも利他主義を説く道徳家には反吐が出そうな思いがする。利他主義を讃える者の大半が、他者の利他主義によって自分が利益を得ようとする利己主義者だからだ。これは死んで社会に貢献せよという非常に不健全な教えだ。お国のために死ね、という考え方と同質だ。私は他者と同等あるいはそれ以上に自分を大切にしたい。
 しかしこれを米百俵の話と同じように経済性で考えるなら合理的な話だ。米百俵の話では種籾としては使わないので、もっと似た話としてタイの諺の「豚は太らせてから食え」を挙げたい。こんな指摘はキリスト教徒を怒らせるだろう。イエスの言葉に対する冒涜だと言うかも知れない。しかしどこが違うのだろうか。動物と植物の違いに過ぎない。
 こんなブラックジョークがある。海難事故に遭った2人の男が草1本生えていない無人島に漂着した。ペットボトルの水を沢山持っていたが食物が無い。日本人であれば迷わず海産物を食べて生き延びるが、彼らは河豚に毒があることさえ知らないほど海には疎かった、これでは2人とも飢え死にするか、どちらかが相手を殺して食べるということにもなりかねない。賢明な2人は相談してお互いの肉を少しずつ提供し合うことに決めた。まずペニスを、次に耳を、それから左腕を切り取ることで合意した。ペニスを切り取ろうとした時、一人が言った。「どうせ食べるのなら大きくしてから食おう!」
 痩せた豚であれば肉は少ないし脂肪分も足りない。だから太らせてから食べる。一粒の麦であれば腹の足しにもならない。だから増やしてから食べる。同じことではないか?それどころか豚を太らせてから食べようと痩せたままで食べようと犠牲にされるのは1頭だけだ。麦を増やしてから食べれば多くの命が奪われる。
 殺生を否定する気は無い。光合成のできない動物は他の動物か植物を食べなければ生きられない。これは罪ではない、自然な行為だ。将来、食物を化学合成できるようになるかも知れないがそれを待っている訳には行かない。日本語の「いただきます」には「命を頂きます」という意味もあるらしい。食用に供される動植物に感謝しながら、できるだけ大切に食べたいと思う。