俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

男女差

2014-10-20 10:34:20 | Weblog
 スポーツであれば殆んどの種目が男女別に行われる。もし男女の垣根を取り払ってしまえば女性の入る余地は殆んど無い。それほど格差は顕著だ。
 将棋・囲碁においても男女が分かれている。こういう知的ゲームにおいて男女差は無い筈だが、現実として差があるから女性が別枠になる。
 概してトップを争えば男性が勝つ。それは男性のほうが個体ごとのバラ付きが大きいからだ。知能テストにおいて平均点は女性のほうが高いが、最高グループでも最低グループでも男性のほうが多いらしい。女性は中央付近に多く分布する。
 哺乳類のオスとメスを比べればオスのほうが構造が単純だ。メスは出産と授乳という自分の生存のためには不必要な機能を持たねばならない。これは授精という簡単な機能しか持たないオスとの大きな違いだ。必要な機能が少なければ特化し易い。これは速く走るという機能に特化したレーシングカーのようなものだ。他の機能、例えば耐久性や快適性や安全性などを犠牲にすることによって市販車よりずっと速く走ることができる。しかし速く走れるレーシングカーを市販車よりも優れた自動車だと考えるのは一部のオタクだけだろう。もしレーシングカーで街を走れば危険極まりない。あくまで特殊な環境での最適車に過ぎない。特殊な環境での最適車は他の環境では最不適車になり得る。
 男女差はレーシングカーと市販車の違いのようなものだ。出産・授乳という機能を持たずに済む男性は生存競争に有利な方向に特化できる。だから体力の男女差が生じる。
 体力以外については何が適性なのか分からない。例えば寒さに強ければ暑さに弱いだろうし敏感と過敏の差は紙一重だ。今後、環境がどう変わる分からないから適度に個体差があるほうが全滅を免れられる。だから出産・授乳という役割を担わない男性において、より大きな個体差が生まれる。市販車という制約が無ければレーシングカーや戦車や消防車やソーラーカーなどが可能なのと同じことだ。
 オスの個体差が大きいのは、環境の変化に対応するための保険であり実験体と言っても良かろう。これは個体にとっては諸刃の剣だ。レーシングはレース場であれば最適車だが市道に出れば欠陥車だ。特化したことによる適者は異なる環境においては不適者になり得る。よく切れる剃刀が脆いように特定の環境に適応した個体は他の環境では弱い。個体の生存にとっては不利になるほどに変異の幅が大きいから男性の寿命は女性よりも短いのだろう。

反欧米

2014-10-20 09:51:37 | Weblog
 最近、欧米およびそれに追随する日本のマスコミの報道が信じられなくなって来た。キリスト教を善、イスラム教を悪とする姿勢が余りにも露骨になっているからだ。
 9.11アメリカ同時多発テロの際、ブッシュ大統領は「テロとの闘い」と言ったが、実は異教徒との闘いだろう。
 サダム・フセインもオサマ・ビンラディンも当初はアメリカの傀儡であったことは周知の事実だ。同じようなことをアメリカは中南米でも散々やった。傀儡が自主性を持とうとすると言い掛かりを付けて殺すというパターンだ。
 キリスト教徒は異教徒を人間と認めない。中世の魔女裁判では、魔女と自供した人は悉く死刑にされた。自供すれば減刑するという約束は総て反故にされた。それは約束とはキリスト教徒間でのみ有効であり魔女との約束は無効だという論理に基づく。
 十字軍のタテマエは聖地奪還だが、その実態は略奪と侵略に過ぎなかった。目的に適った戦闘は余りにも少ない。
 ネイティブアメリカン(インディアン)に対する仕打ちも酷いものだ。土地を共有物と信じていた彼らを騙して二束三文で取り上げた。西部劇では幌馬車隊がインディアンに襲われて騎兵隊が救うというパターンになっているが実際には騎兵隊が一方的に侵略していたらしい。仮に幌馬車隊が襲われても、当時は通信手段が無かったから救援要請さえできない。あの広いアメリカで市民の救援など100%不可能であり、傭兵だけが頼りだっただろう。だから今でもアメリカ人は銃を手放せない。頭の皮を剥ぐという行為を始めたのも白人だ。モヒカン刈りの頭皮なら一目で識別できるので、インディアン狩りの報酬は頭皮に対する対価だった。アメリカ史は捏造だらけだ。
 ペリーが日本に開国を迫ったのは捕鯨基地にするためだった。当時、鯨油は貴重な燃料だったからアメリカは世界一の捕鯨国だった。石油のほうが安価になれば捕鯨から撤退して捕鯨国を非難する。豹変し過ぎだ。
 原爆の投下も非キリスト教徒の日本人が相手だから平気でできた。日本人は原爆実験のためのモルモットのような位置付けだ。
 東京裁判は捏造の極みであり茶番劇だ。「平和に対する罪」や「人道に対する罪」といった事後法をでっち上げて、国際法に背く遡及処罰をしている。これは裁判と呼べる代物ではない。
 日中韓で歴史認識が問題にされているが些細な問題だろう。余りにもスケールの大きい、白人による新大陸侵略と大虐殺と奴隷支配と比べれば小さな出来事に過ぎない。白人による暴挙を問わずにローカルな歴史に拘ることはグローバル性を欠いている。