俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

勉強(2)

2014-10-14 10:23:42 | Weblog
 リタイアした老人は人それぞれに勉強する。好きなことを勉強して構わないが、どうせ学ぶのなら、残りの人生の短さも考慮して、今後の生活に確実に役立つことを学んだほうが良かろう。私は①医学②科学を推す。私の専門ジャンルの哲学や心理学は興味のある人が学べば良い。あるいは語学については、海外への旅行や移住を考えている人以外にはお勧めできない。語学は時間が掛かる割には得るものが少ない。
 なぜ医学が一番なのか。それは確実に自分のためになるからだ。医師は病気についての技術者だが健康の専門家ではない。その何よりの証拠は医師の平均寿命が日本人の平均よりも短いということだ。医師は病気の標準治療を知識として持っている技術屋に過ぎず、健康については何も知らない。医師は一部の病気の治療法を知っているだけだ。これは「すき家」の殆んどの店員が栄養学について無知であるのと同じようなものだ。
 医学は本来、薬学と栄養学も含めた総合科学だ。そこまで踏み込めば自分の健康のエキスパートになれる。
 食と健康について、人は知っているつもりでいる。よく知らなくても知っているつもりでいることが一番危険だ。だから簡単にデマに踊らされる。コゲや食品添加物を必要以上に恐れるのは確かな知識を欠いているからだ。必須アミノ酸や必須脂肪酸の存在も知らないから炭水化物と野菜に偏重した食事を摂って健康を損なう。米とパンが砂糖と同じ澱粉質の塊りに過ぎず他の栄養素を殆んど含まないということさえ知らない。私は白米とパンを典型的ジャンクフードだと考える。マスコミによる商業主義的健康の嘘を見抜き、薬に頼らない真の健康を目指すべきだ。
 科学の長所は正確な知識であることだ。実権によって検証された科学であれば数学の次に厳密な学問であり得るだけに無駄にならない。科学の範囲は広すぎるが一番のお勧めは気象学だ。気象について学べば気象庁が発表する情報を深読みできる。気象庁はデータと予報を同列にして発表するが、これは素人を想定した誤った手法であり、この2者は全く異なる。データは事実だが予報はデータに基づいた推測だ。予報は無数にあり得る。予報の蓋然性を理解して最大限に活用するためには自ら気象について知らねばならない。天気図を読めるようになるだけで気象に関する理解は格段に高まる。大袈裟な言い方だが、気象学は命を守る。昨今のように自治体が無責任に避難勧告を乱発すればそれが本当に危険かどうか分からなくなる。気象学を学べば自分にとって必要な天気予測が可能になる。

演繹法

2014-10-14 09:42:29 | Weblog
 帰納法で証明することは極めて難しい。「カラスは黒い」ということでさえ帰納法では証明できない。たとえ100万羽のカラスが黒いということを確認できても次の1羽も黒いとは言い切れない。
 この点、演繹法は便利だ。様々な定義を設け、その中に「黒い」を含めれば済む。そうすれば黒くなければカラスではなくなる。白いカラスが現れてもカラスに似た亜種か突然変異のアルビノとして例外扱いにできる。
 演繹法は便利だが独断や独善に陥り易い。科学的事実であれば演繹しても問題は生じにくいが、本来、演繹できない経験的事実まで演繹され勝ちだ。「期待される人間像」とか「理想の家庭」などが想定されればそうでない人は否定される。昨今のキャリアウーマン重視の風潮は専業主婦という業務の重要性を否定する。育児の重要性と難しさを不当なほど軽視している。演繹法を乱発すれば視野が狭くなり価値の多様性が認められなくなる。
 あるいは量を無視した主張も迷惑なだけだ。放射能や農薬が危険であることは事実だが微量であれば有害性は殆んど無い。それにも拘わらず「1マイクロシーベルトも許さぬ」と馬鹿なことを言う人がいる。地球上に放射能ゼロの場所など無い。
 私は、万有引力の法則のような絶対確実なもの以外については極力演繹法を使わないように心掛けている。代わりに確率論を使う。水泳が体に良いかどうかはよく分からないが多分良いだろうと考えて毎日泳ぐ。合成保存料の危険性もよく分からないが、無添加食品による食中毒の危険性とを秤に掛ければ保存料を使った食品のほうが安全だろう。
 杞憂は正当だ。天(星)が落ちて来ることも大地が崩壊することもただの杞憂ではない。この憂慮は演繹法では解消できない。あくまで確率的に、そんな目に会う可能性が極めて低いと指摘できるだけだ。
 学校で教わったことやマスコミが報じたことを無批判に信じてそれを演繹しようとすることは極めて危険だ。例えば遺伝子組み換え農作物の安全性は100%確実ではない。しかし危険と証明されていない物を毛嫌いして最先端技術から取り残されることは日本の農業を破綻させかねない。薄いグレーに対しては薄いグレーとして扱うべきだろう。原材料や飼料として活用しながら食用としての可能性を探るという方向性のほうがずっと良かろう。
 朝日新聞による嘘を信じて誤った主張をしていた人も演繹の罠に嵌っていた。前提が誤っていたのだから改めて事実に基づいて考え直さねばならない。演繹法は事実よりも理念を優先させかねない危険な手法だ。