自責と他責という概念はQC(クオリティ・コントロール)活動のために欠かせない。問題があればその原因を自責と他責に分類する。この手法が有効なのは先に自責を追及する点だ。職場がうまく機能しない原因をまず自分達が関与する部分で検証する。自分達でできることを改善するだけでかなりの成果が得られる。そしてそれでも改善できないことについて他部門に協力を求める。人は自分を改めることなら可能だが他者に改めさせることは難しい。他者が改めるのはその人が誤りに気付いて自らの意思で改めるからであって、改めることを強制することは困難だ。
最悪は他責ばかりを追及することだ。業績が悪いメーカーで、商品開発部門と製造部門と営業部門、更に管理部門まで含めてお互いに責任を擦り付け合っていても問題は解決されない。まずできることから始めねばならない。
現在の日本はかなり他責追及の傾向が強まっている。つまり自分を責めずに他人ばかりを責める。喧嘩になるのは両者が相手を責めるからだ。お互いが相手の悪さを非難し合っても解決には繋がらない。考えればすぐに分かることだが、相手から非難されるのは自分に非があるからだ。双方が自分の非を認め合わなければ解決は不可能だ。
「妖怪ウォッチ」というゲームが流行っているそうだ。このゲームでは、成績が悪いのも人に嫌われるのも妖怪のせいであり、妖怪と仲良くなれば問題は解消されるそうだ。こんな本来、自責であるべきことまで妖怪のせいにするところに他責の蔓延を感じる。
漫画の世界もそうだ。昔のスポ根(スポーツ根性)漫画のような努力を重ねて成功するという話は殆んど見掛けない。突然超能力を授かったり、眠っていた能力が覚醒したりする設定が大半だ。自分が頑張って達成するのではなく棚ボタで超人になることを夢見るのは他責型願望だろう。
モンスターペアレントやモンスターペイシャントなどの「モンスター」も他責偏重に基づく。彼らは自分達の悪さを全く考慮せずに一方的に権利を主張する。
他責型鬱病という病名を初めて聞いた時には驚いた。鬱病の原因は自分を責め過ぎるからだというそれまでの常識に背くからだ。私は抑鬱状態とは心的エネルギーの低下だと思っているが、そんな状態の人までが他人を責めるということに現代の他責偏重の病的状況が現れているように思える。
何もかも自分の責任と考える必要は無いが、他人を責める前に自分に非が無いかを省みるべきだろう。他人の徳を高めることは殆んど不可能であり、まず自分の徳を高めようとすべきだろう。「何はともあれ私達の畑を耕さねばなりません」(ヴォルテールの小説「カンディード」の結び)
最悪は他責ばかりを追及することだ。業績が悪いメーカーで、商品開発部門と製造部門と営業部門、更に管理部門まで含めてお互いに責任を擦り付け合っていても問題は解決されない。まずできることから始めねばならない。
現在の日本はかなり他責追及の傾向が強まっている。つまり自分を責めずに他人ばかりを責める。喧嘩になるのは両者が相手を責めるからだ。お互いが相手の悪さを非難し合っても解決には繋がらない。考えればすぐに分かることだが、相手から非難されるのは自分に非があるからだ。双方が自分の非を認め合わなければ解決は不可能だ。
「妖怪ウォッチ」というゲームが流行っているそうだ。このゲームでは、成績が悪いのも人に嫌われるのも妖怪のせいであり、妖怪と仲良くなれば問題は解消されるそうだ。こんな本来、自責であるべきことまで妖怪のせいにするところに他責の蔓延を感じる。
漫画の世界もそうだ。昔のスポ根(スポーツ根性)漫画のような努力を重ねて成功するという話は殆んど見掛けない。突然超能力を授かったり、眠っていた能力が覚醒したりする設定が大半だ。自分が頑張って達成するのではなく棚ボタで超人になることを夢見るのは他責型願望だろう。
モンスターペアレントやモンスターペイシャントなどの「モンスター」も他責偏重に基づく。彼らは自分達の悪さを全く考慮せずに一方的に権利を主張する。
他責型鬱病という病名を初めて聞いた時には驚いた。鬱病の原因は自分を責め過ぎるからだというそれまでの常識に背くからだ。私は抑鬱状態とは心的エネルギーの低下だと思っているが、そんな状態の人までが他人を責めるということに現代の他責偏重の病的状況が現れているように思える。
何もかも自分の責任と考える必要は無いが、他人を責める前に自分に非が無いかを省みるべきだろう。他人の徳を高めることは殆んど不可能であり、まず自分の徳を高めようとすべきだろう。「何はともあれ私達の畑を耕さねばなりません」(ヴォルテールの小説「カンディード」の結び)