俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

暴力

2016-01-14 10:31:46 | Weblog
 暴力に基づく悪事は少なくない。ドラえもんのジャイアンのようないじめっ子から暴力団、あるいは中国やロシアのようなならず者国家による横暴などあらゆるレベルで暴力を背景にした悪事が行われている。だから暴力は悪いと考えられ勝ちだ。
 しかし暴力は悪事にしか使われない訳ではない。暴力団による悪事を抑止する警察は国家による暴力装置に他ならない。メキシコでは麻薬組織の武力と闘うために警察だけではなく軍隊まで動員されている。
 武力そのものは善でも悪でもない。使い方次第だ。だから暴力一般として否定すべきではない。これは鉄人28号のようなものだ。「♪ある時は正義の味方 ある時は悪魔の手先 いいも悪いもリモコンしだい♪」良いも悪いも暴力の行使者次第だ。
 アルフレッド・ノーベルは土木工事のための安全な爆薬としてダイナマイトを発明した。それが戦争やテロに使われても、ダイナマイトを悪と決め付けることはできない。
 報道には良い報道と悪い報道がある。最悪の報道は子供の自殺であり、これを興味本位や金儲けのために利用すべきではない。報道でさえ良いものと悪いものがあり、言論の自由を最優先することは一考を要する。
 アメリカではオバマ大統領が銃の規制を強化しようとしているが、共和党などの反対に会って難航している。銃を持つことは合衆国憲法修正第2条に明記された国民の権利であり、発砲事件がある度に銃の所有率は高まるらしい。これはアメリカ人の自衛意識が強いからだろう。
 暴力や銃を絶対悪として否定することはできない。だから「暴力反対」や「銃反対」や「戦争反対」は空虚な理想論にしかならない。元々銃が殆ど存在しない日本でならともかく、既に普及して長く権利として認められるているアメリカでの銃規制は決して易しくない。
 明治9年の廃刀令が多くの士族の反発を招いたように、国民は権利を奪われまいとする。オバマ大統領が実際に行ったように、不正な販売ルートの規制のような搦手を使うことが有効な策であり、銃を悪と決め付けることなくあくまで「銃の悪い使い方」を規制する必要がある。
 喫煙者としての私が最も怒りを覚えるのは傍若無人な喫煙者だ。火の点いた煙草を振り回したり明らかに迷惑な場所での喫煙などを見れば、彼らこそ喫煙者の立場を悪化させる輩だと感じる。銃の権利を主張する人にとっても銃を悪用するテロリストは敵だ。良い銃と悪い銃を明確に区別することによって敵対する筈の人々まで味方に回せれば、アメリカにおける銃規制はもっと広く支持されて安全な社会へと一歩前進できるだろう。

育児適齢期

2016-01-14 09:45:36 | Weblog
 11日に東京ディズニーランドで行われた浦安市の成人式で松崎市長は「出産適齢期は18歳から26歳を指す」と発言した。これは科学的事実を伝えただけではなく市長の願望を語ったものと解釈して差し支えなかろう。
 しかし人のライフステージをこんなに簡単に科学的・生物的に決め付けて良いものだろうか。仮に人の体力・知力が60歳を境にして急激に衰えるとしても、60歳までだけ必死で働けという理屈にはなるまい。私は働きたくないが、60歳を越えても働く権利はあるだろう。
 それ以上に重要なことは、生物的な出産適齢期と人間としての育児適齢期が全く異なるということだ。18歳から26歳の現代人の大半は余りにも未熟で到底、育児適齢期を迎えているとは思えない。かつての大家族制であればそれでも構わなかった。姑が積極的に育児に関与したからだ。しかし現代の核家族制の元では夫以外に頼れる人はいない。ところが多くの場合、夫も同世代であって精神的にも社会的にも未熟であって頼りにならない。
 何が起こるか?児童虐待や育児放棄だ。統計を取った訳ではないので必ずしも正確ではないかも知れないが、児童虐待や育児放棄などで逮捕される母親は大半が20歳代前半だ。20歳代の母親の境遇は様々であり一概には言えないが、精神的未熟さがその最大の原因だろう。
 20歳代の女性にとってはやりたいことが沢山ある。心も体もエネルギーが充実しているから遊びも恋も仕事も最も楽しい時期だ。そんな時に育児に専念させられることは大きなストレスになりこれが我が子に対する憎悪に変質することもあり得る。我儘でありたい自分の自由が、自分よりも我儘な乳幼児によって奪われることに、若くて未熟な母親の大半が耐えられない。
 人もやはり動物としての本能に左右される。他の動物と同様人類のオスもできるだけ多くのメスと交尾しようとするものだ。しかし私はこの動物的事実に基づいて浮気を肯定しようとは思わない。動物としての事実はあくまで事実に過ぎず、行為を肯定する根拠にはなり得ない。社会内で生きる動物は野生の動物とは異なった基準を持っている。
 人は動物ではあるが社会内で生きる動物だ。生物としての事実に基づいて「かくあるべし」と決め付けるべきではなかろう。人には選択する能力がある。様々な事実に従うことも抗うことも選択できる。当然、単なる動物として生きることも社会内動物として生きることも、どちらも選択肢たり得る。