俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

化膿

2016-01-20 10:41:02 | Weblog
 腫れには2種類ありこの2者は質的に全然異なる。
 打撲や捻挫をすれば腫れる。私はこの炎症を良い腫れだと考える。腫れれば血流が増え自然治癒力が存分に働いて治癒が促される。
 もう1つの腫れは化膿だ。傷口から病原体が入り患部が腫れ上がる。この腫れの正体は膿だ。病原体と白血球の残骸だ。これは老廃物だがこれを排出する仕組みが無いから取り敢えず皮膚に留まっている。清潔な状態で膿を出してしまえば痛みも消える。「膿を出す」という言葉は比喩的にも使われるが、この腫れは不必要な物の溜まり場だ。
 この2つが混同されている。腫れという症状でありながら、一方は血流の増加でありもう一方は膿が溜まっているだけだ。化膿という症状があるせいで自然治癒力が働くための炎症まで症状と誤解されているのではないだろうか。冷やして炎症を鎮めることが治療と考えられているのは化膿との混同だろう。広辞苑では炎症とは「細菌感染・化学的作用・物理的作用などによる組織の傷害に反応して、身体の一部に発赤・腫脹・発熱などを起こすこと及びその症状」とされており、この2者が区別されていない。
 皮膚にできる炎症と化膿でさえ混同されるのだから内臓にできる腫れ物についてどう診断されているかは全く疑わしい。あるいは表皮にできても無害なので放置され勝ちな瘤やイボのようなものが内臓にできた場合、これらまで腫瘍と呼ばれているのではないだろうか。
 日本では癌の定義がかなり甘いらしい。欧米では良性腫瘍と診断される小さな腫瘍まで癌の早期発見として早期治療の対象とされている。こんな無意味な治療を幾らやっても癌患者は減らない。日本で癌死亡率が一向に下がらないのは高齢化が原因ではなく、無駄な「治療」にばかり尽力して本当の治療に背を向けているからではないだろうか。癌でない患者を治療していれば手術の成功率も5年後生存率も高まるが全く無意味な成果だ。
 癌と良性腫瘍を区別することは炎症と化膿の区別より遥かに難しいだろうがそれは必須だろう。疑わしい物を片っ端から切り取っていればいつまで経ってもこれらは混同されたままだ。
 日本人の1割が脳に小さな動脈瘤を持っているそうだ。これが破裂すればくも膜下出血となるが、どれが破裂し易いかなど誰にも分からない。脳動脈瘤の手術は後遺症が残る可能性がかなり高いだけに、明らかに危険なほど大きな動脈瘤以外は手術せずに生活習慣などの改善によって対応したほうが良いらしい。癌の手術も脳動脈瘤と同じくらい慎重であって良いのではないだろうか。必ずしも必要でなかった手術の後遺症に苦しむ人は少なくないようだ。

台本

2016-01-20 09:49:13 | Weblog
 我々は台本の無い世界に生きている。自らの意思に基づいて生きようとしても、失敗や挫折を繰り返して試行錯誤を強いられる。
 スポーツにも台本は無い。だから野球のプレミア12の対韓国戦やかつてのサッカーの「ドーハの悲劇」のような思わぬ大どんでん返しがあり得る。台本に従うスポーツは八百長試合かプロレスのようなショーだけだ。
 ショービジネスという言葉があり芸能・娯楽産業を指す。これはショーを扱うという意味だけではなくビジネスそのものまで台本に基づいている。マスコミの注目を集めるために様々な手を使う。絶体絶命のピンチを演出してハラハラドキドキさせればファンは否応無く注目し激しく感情移入する。先日来のSMAPの解散騒動も見え見えの茶番劇だった。最初から最後まで台本に基づいており最終的にはファンの熱意によって総てが解決されたかのように装う予定調和の猿芝居だろう。メンバーによる生放送での会見にしても明らかに台本に基づいており各自の本音ではない。芸能人は所詮「駒」だ。劇中だけではなくマスコミに向けた言動は常に台本に従う。
 一連の騒動によって古いCDまで売れテレビは視聴率を稼ぎスポーツ新聞は販売部数を増やしたのだから関係者一同にとってはメデタシメデタシと言うべき顛末だろう。何よりも不思議なのはこんな茶番劇を批判する報道が無かったことだ。公共放送の紅白歌合戦でさえ牛耳るジャニーズ事務所の神通力は凄まじい。
 私はバリ島にたった1回行っただけで嫌いになった。滞在初日、突然祭りが始まった時、流石は「神々と芸能の島」だと感激した。しかし翌日も翌々日も同じ時刻になるとダンスが始まる。よく見ればメンバーも毎日殆んど同じ顔触れだった。妙に人為的なものを感じた。
 調べてみればバリの芸能は一人のドイツ人によって作られていた。西洋人が東洋的エキゾチズムを感じるような歌と踊りを創作したものであり決して伝統芸能ではなかった。ダンサーは全員公費で雇われたプロであり自然発生を装ったショータイムだった。
 台本に基づいていれば必ず大団円へと向かう。決して期待を裏切らない。水戸黄門のようなハッピーエンドが待っている。こんなマンネリズムを喜ぶのは脳細胞が劣化した老人だけだろう。
 生きるとはどうなるか分からない未来に賭けることだ。未来が不確かだからこそ人は知恵を絞って様々な選択をするがそれが良かったかどうかは後になって初めて分かる。結果が分からないからこそ挑戦する。人が冒険をするのは、必ず想定外のことが起こるからだ。それを喜ぶか嫌うかは生きるスタンスの違いでもある。大過無く生きようとすれば大果も対価も得られない。