俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

善と悪

2010-03-09 15:45:56 | Weblog
 卵が先か鶏が先かのような不毛な議論をするつもりは無いが、善と悪に関しては悪が先行すると思われる。つまり善の否定が悪であるのではなく、悪の否定として善が成立すると思う。
 悪いことがあり得るからそれを予防あるいは減少させることが「善」とされる。暴力があるから非暴力が善いことであり、飲酒運転事故があるから飲酒運転をしないことが善いこととされる。
 これは決して善悪に限ったことではない。あらゆる「良いこと」は「悪いこと」の否定として最も正確に説明できる。健康とは何か、病気や障害が無いことだ。若さとは何か、老化していないということだ。マナーとは何か、周囲に迷惑をかけないということだ。生とは何か、死んでいないということだ。安全とは何か、危険でないということだ。平和とは何か、戦争中でないということだ。このように「良いこと」は「悪いこと」の否定によってこそ定義が可能になる。「無事」こそ「良いこと」を意味する。
 善がこんな消極的な概念ならばそれを大上段に振りかぶった議論が破綻するのは当然のことだ。

外見

2010-03-05 15:58:43 | Weblog
 人間は必要以上に外見を重視する。
 ある博覧会でテキ屋のオヤジがマスコットキャラクターの着ぐるみを着たことがあった。そのオヤジは本当に怖い顔をしていて、近づいただけで子供が泣き出したり引き付けまで起こしかねないような顔だった。ところが着ぐるみの中に入れば顔が見えない。だから子供達は大勢集まってこのオヤジに抱きついていた。もし着ぐるみを脱いだら子供達はそれこそ蜘蛛の子を散らすように逃げ出していたことだろう。
 倉橋由美子さんの竹取物語の結末は衝撃的だ。この竹取物語では原作とは違ってかぐや姫の希望に沿って姫が地球に残ることが許される。但し宇宙人の姿に戻った上で。宇宙船から降りたかぐや姫は護衛兵によって「この化け物め、死ね」と滅多切りにされる。姫は「ミカド、ミカド」と呟きながら息絶える。
 なぜ人間はこれほど大きく外見に依存するのだろうか。

地産池消(2)

2010-03-05 15:40:13 | Weblog
 地産池消の推進は豊かで健康な食生活を阻害する。
 ある特定の土地で作れる農作物は限られるから、地産池消に取り組めば毎日、地元特産のイモとかキャベツばかり食べるような栄養の偏った貧弱な食生活を強いられることになる。
 幸いなことに日本には様々な気候風土があり、それに対応して様々な食材が揃っている。この自然の恵みを最大限に活用しなければ勿体ない。
 特定の土地の産物に頼ることは危険でさえあり得る。ある土地で取れる米や野菜にはカドミウムが含まれているそうだ。こんな土地で取れる米や野菜ばかり食べていればイタイイタイ病にもなりかねない。産地を限定することはその土地特有の毒物の蓄積に繋がる恐れがある。
 地産池消よりも適材適所のほうが遥かに理に適っている。もし日本でバナナを栽培しようとすれば巨大な温室が必要になるが、そんな馬鹿なことをするよりは南国から輸入したほうが良い。米作に向かない土地で不味い米を作るよりはその土地にあった作物を作ったほうが良い。
 それぞれの土地で最も適した農作物を作って役割分担したほうが食文化も豊かなものになる。フードマイレージなどといった戯言に騙されることなく(次の、時間的には前の記事参照)日本中・世界中から集まったヴァリエーション豊かな食材を楽しみたいものだ。
 しかしなぜ地産池消のような不合理な主張がマスコミで採り上げられるのだろうか。得をするのは消費人口の多い都心の農家だけであることを考えるなら、農作物の質が悪いために売れない東京近郊の兼業農家のサラリーマン本人かその友人であるマスコミ関係者が己の利益のために話題にしている可能性が高いと邪推せざるを得ない。

フードマイレージ

2010-03-05 15:22:20 | Weblog
 フードマイレージは食料品の重さ×輸送距離で算出される。力(=質量×加速度)×距離で算出される仕事量に似ているので何となく科学的な数値であるかのように誤解され易いが、実はこれは似非エコロジストがでっち上げたナンセンスに過ぎない。
 アメリカから輸送するレモン1個のフードマイレージは巨大な数値になる。しかしこのたった1個のレモンを運ぶために必要とされる石油は1ccにも満たないだろう。たった1個のレモンを運ぶために船を動かす訳ではなく、何百トンものレモンが同時に運ばれているからだ。こんなレモンのフードマイレージを気にするよりは、乗船前に乗務員全員に大便を出させて重量を減らしたほうが何十倍も環境に貢献するだろう。
 こんな無意味な数字よりも宅配のほうが遥かに罪は重い。仮にレモン1個を宅配するならそのためには数トンのトラックを少なくとも数十m動かして停車させねばならない。レモン1個を宅配することは通常あり得ないが、産地直送の野菜を宅配すればどれだけのエネルギーがそのために使われることだろうか。
 レモンで問題にすべきなのはフードマイレージよりもポストハーベストだろう。輸送中のレモンが病虫害に会わないように大量の農薬(殺虫剤)がぶっかけられ、残留農薬の濃度がしばしば安全基準値を上回る。
 無意味な問題で騒ぐことは、宅配やポストハーベストなどの重要な問題を忘れさせるから最も反エコロジー的な活動だ。

会社主義

2010-03-02 16:26:26 | Weblog
 人間は群居動物だから社会を求める。社会に貢献することを通じて自分に価値を見出す。しかし小さな村に住んでいる人ならともかく、都会に住む人には「社会」が見えにくい。駅ですれ違う無数の赤の他人は同じ社会の人間とは到底感じられない。
 そのため身近で濃厚な関係を自分にとっての「社会」と見なすようになる。その典型が会社主義だろう。会社が擬似社会となる。会社に対する貢献こそ社会に対する貢献と信じて滅私奉公に励む。会社に貢献して会社から必要とされることが社会との有機的な繋がりになると信じて「社蓄」になる。
 しかし会社は所詮利潤を追求するための組織に過ぎない。彼が理想として思い描いた共同体とは懸け離れたものだ。会社は利潤追求のためなら首切りも厭わない。会社に「片思い」し続けた人は、会社からの残酷な処遇に絶望する。会社=社会と思い誤った人は会社から否定された自分は無価値な人間であるとさえ思い込む。これは二重の錯乱だ。会社=社会ではないし、人は会社から個人の価値を付与されている訳でもない。

ルール作り

2010-03-02 16:08:59 | Weblog
 スポーツにルールは欠かせない。しかしそのルールはかなり恣意的に変更される。
 かつて日本はノルディック複合を得意とした。ジャンプで稼いでノルディックで逃げ切るという戦略だった。ノルディックの得意な選手が多いヨーロッパ各国の意向でジャンプの評価が下げられた結果、日本のお家芸ではなくなった。
 スキーのジャンプそのものもルールが変更された。体の小さい選手は小さなスキー板を使わねばならなくなった。勿論これは小柄な選手が多い日本人を狙い撃ちにしたものだった。
 Judoもルール変更のたびに柔道とは懸け離れたものになって行く。
 フィギュアの基礎点にも恣意的なものを感じる。浅田選手にしか跳べないトリプルアクセルの基礎点は不当に低く設定されている。特にコンビネーションジャンプは酷い。浅田選手にしかできない3回転半+2回転の基礎点は9.5点で、金ヨナ選手の3+3回転は10.0点だ。要するに、世界で唯一人しかその技をできる選手がいないのなら、その技の基礎点を低くしてしまえば他の総ての選手が有利になる。欧米人はこんな不正とも思えることを平気でやる。
 欧米に多数決で押し切られることも多いだろうが、日本人はもっとルール作りに積極的に取り組むべきだ。日本人は今でもルールはお上から与えられるものだと思っているようだが、欧米人はどうすれば自国に有利になるかという視点も含めてルール改訂を主張する。欧米人と日本人はルールに関する意識が全然違う。これはスポーツに限らず、あらゆる国際間の競争において不利を招く。
 

0.02秒差

2010-03-02 15:53:38 | Weblog
 女子スケートの団体パシュートでの銀メダルは快挙だったが・・・。
 2,400mを3分2秒84で走ったのだから秒速13.1m。0.02秒の差は距離にすれば約26㎝だ。ゴール前は直線コースでありラストスパートも考慮すれば30㎝ぐらいの差だろう。しかしもっと頭を使っていたらこの差は覆せたのではないかと思った。
 スタート地点で日本チームは縦一列に並んだ。一番後ろの選手は先頭から3mほど離れていた。テレビで見た限りでは、優勝したドイツ以外の総てのチームがこのフォーメーションでスタートしていた。
 ドイツだけが違っていた。3人が横に並んでいた。横一線ではなく微妙に前後にずらして奇妙な三角形を描いていた。一番後ろの選手は先頭から1mほどしか離れていなかった。
 賢いドイツ人はコンピュータと数学を駆使して、一番有利なスタートポジションを計算したのだろう。
 走行距離が2m違うことは無視できない。何しろ結果は30㎝の差だったのだから。2m違えば時間においても体力の消耗においても差が生じる。
 この種目は前回のトリノから採用されたので歴史が浅い。それだけに改善の余地が多い筈だ。スタートの位置取りに注目して金メダルを取ったドイツ人は賢い。0.02秒の差は知恵の違いが生んだものだろう。