俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

2010-06-08 15:08:29 | Weblog
 欲は抑圧されるべきものではなく制御されるべきものだ。
 欲こそ人間の原動力だ。少なくとも生きる意欲が無ければ生きることさえできない。
 金銭欲も恥ずかしいことではない。金が無ければ飢え死にするしかない。金の亡者になって、不正な手段を使ってまで金儲けをしようとすることが浅ましい。
 性欲も自然なものだ。性欲の無い動物は絶滅する。痴漢という犯罪は性欲のせいではなく「性欲を制御できない」ということが原因だ。欲そのものが悪いのではなく制御できないということが悪い。
 最近、性欲の乏しい植物系男子が増えているそうだが、性欲を汚いもの・恥ずかしいものと刷り込まれたために性欲そのものを否定してしまった可哀そうな人だろう。
 食べ過ぎる人は食欲を制御できない人だ。健康に良い適量を知っている人ならどれだけご馳走を並べられても食べ過ぎたりしない。
 向上心は今よりも優れた人間になろうという欲求だ。向上欲が乏しい人は現状に満足して鍛錬を怠り徐々に劣化する。
 欲こそ個人を成長させる。欲を肯定的に捉えねばならない。欲を否定して抑圧しようとすれば、欲は健やかな成長をせずに歪んだ欲望へと変形してしまう。

子供サラ金

2010-06-04 14:36:11 | Weblog
 子ども手当ては実質的には子供サラ金と言える。国債によって賄っているからだ。国債はいずれ償還せねばならない。その償還のための増税を負担させられるのは現在子ども手当てで恩恵を受けている世代だ。これでは子供にサラ金で借金をさせるようなものだ。
 道路を作るために国債を発行するのは納得できる。道路は次世代も利用するものだから次世代にも負担して貰っても良い。これは企業における減価償却のようなものだ。
 今後、国の収入が減ることは分かっている。労働者の数が減り、個々の賃金の上昇も期待できないから所得税は減る。先進国の法人税は25~30%に対して日本の法人税は約40%だから、産業の空洞化を防ぐためには法人税減税をせざるを得ない。
 増やせるのは消費税だけだ。しかし子ども手当てに使った金を回収するために何%の増税が必要なのだろうか。
 やるべきことは唯ひとつ。支出を減らすことだけだ。聖域無き支出削減が必要だ。つまり医療費や年金も含めて見直す必要がある。そして何よりも政・官がやりたがらない議員制度改革と行政改革が急務だ。しかし政・官がやりたがらないことを誰がやるのだろうか。結局、河村たかし名古屋市長のような志のある政治家に期待するしかない。
 金権政治家やばら撒き政治家を許さず、本気で国民の未来を考える政治家を選ぶことは国民の義務だ。政治家だけが悪いのではなく、そんな政治家を選んだ国民のほうがもっと悪い。いつまでも国債に頼っていてはギリシャの二の舞になってしまう。

未来

2010-06-04 14:20:18 | Weblog
 3月末に中途退職した時点での私の思惑は、大学時代の生活に戻るということだった。
 私にとって大学生活は天国だった。単位は3回生の時点で総て取っていたので生活は全く自由だった。読書、スポーツ、交遊、遊び、アルバイト等々どれも充実していたので余りにも居心地が良く、大学生活は5年間になってしまった。
 仕事さえ辞めれば自由時間を取り戻して学生生活のような薔薇色の余生が送れると思ったがそうは行かない。
 現在の生活は、読書と水泳の毎日で、それ以外には週2回のブログの更新ぐらいで、理想として思い描いた晴耕雨読の生活の筈なのに充実感が乏しい。何が違うのか?
 大学生の時には未来があった。色々と下らないことをやって失敗してもそれは将来のためのコヤシになると思ったから何にでもチャレンジできた。
 初老の現在、未来は狭い。認知症になることを恐れつつアンチエージングに励むばかりだ。失敗がコヤシになるというようなポジティブな考え方は難しい。20年以内に死ぬと考えれば手広く色々やるよりは堅実に積み重ねることを選びたくなる。
 老人の自由は学生の自由とは違う。豊かな未来があるかどうかでその質は全然異なってしまう。若い頃のように自由を謳歌することは高齢者には難しい。老人の自由は死刑囚の自由のようなものだ。だから多くの老人がシルバーボランティアのような自己満足の世界で生きがいをでっち上げようとするのだろう。

オウンゴール

2010-06-01 14:29:22 | Weblog
 5月30日のサッカーで日本代表は2つのオウンゴールでイギリス代表に負けた。ファインセーブを繰り返していたゴールキーパーの川島選手もたった2度の味方による攻撃にはお手上げだった。
 当たり前のことだがゴールキーパーは敵の動きに注目する。敵の選手がどこにいて、どんな攻撃を仕掛けようとしているのかということに気を配る。しかし味方による攻撃はノーマークだ。
 社会生活においても同じだ。怖いのは敵の攻撃よりも味方の裏切りだ。八百長試合が成立するのも常に負けるための八百長だ。勝つという八百長はあり得ない。
 獅子身中の虫という言葉がある。百獣の王ライオンでさえ体の中の虫に対処することはできず殺されてしまう。たかが虫でも体内に入ればライオンを倒すことができる。
 釣った魚には餌をやらないという言葉もある。魚ならそれで良いかも知れないが相手が人間なら事情は違う。家庭であれ企業であれ政党であれ一番危険なのは内部の造反者だ。内部から裏切り者を出さないように、あらゆる組織はもっと構成員の処遇に気を使うべきだろう。

10,000年後

2010-06-01 14:14:41 | Weblog
 波打ち際で波と戯れながら考えた。10,000年後も同じように波は打ち寄せ、潮は干満を繰り返しているだろうと。その時、人類は存在しているだろうか。多分既に滅んでいるだろう。それなら人類とは地球にとって何だったのだろうか。恐竜のように我が物顔で地球の支配者として君臨して、地球環境を散々破壊した上で自らを滅ぼした愚かな動物だったということだろう。
 もしそこに知的生命体がいればこう書き記すだろう。「人類とは進歩と進化のバランスが崩れた動物だった」と。
 本来、動物はその能力に応じた道具しか使わない。木の枝とか石ころなどを道具にする。人類だけが個々の能力を超えた道具を使う。テレビだろうが携帯電話だろうが、そのメカニズムが分からないまま平気で道具として使う。
 機械文明の進歩は人類の進化の速度を上回っている。人類の進化は文明の進歩に全然追い付けていない。大量殺戮兵器を作っているのにそれを制御できるレベルの知力を身に付けていない。文明は蓄積できるが知恵は蓄積できないからだ。
 人類に許される武器はせいぜい刀までだろう。刀で人を切れば相手の骨を断つ感触が伝わるし血や苦悶の表情も見ざるを得ない。だから恐ろしいことをしたと後悔できる。しかし銃以上の強力な武器では実感が伴わずテレビゲームのようなヴァーチャルな感覚になってしまう。

男女平等

2010-06-01 14:02:20 | Weblog
 5月27日の京都地裁で「顔の傷の重さは男女同じ」として障害等級認定基準の男女差を違憲としたが、どうだろうか。
 顔の傷の重さには個人差がある。ボクサーなら余り気にしないし、芸能人やホステス・ホストにとっては重大な問題だ。こういったことを考慮せずに、平等でないことだけを根拠にして違憲と決め付けるのはどうかと思う。
 クレオパトラの鼻がもう少し低ければ歴史は変わっていたかも知れないが、私の鼻など高かろうが低かろうがどうでも良い。美男・美女ならその容姿の経済的価値は高いが、初老の私の容姿なら大した値打ちは無い。
 仮に通り魔に髪を切られた場合、ロングヘアーの女性なら傷害罪になるだろうが、私なら散髪代さえ貰えれば許す。
 男女が喧嘩をして双方の顔に傷が付いた場合「お互い様」で済むだろうか。私は男が賠償責任を負うと考える。
 差別は悪いことだが弱者救済や弱者優遇は必要なことだ。もし弱者救済や弱者優遇まで差別として禁じられるなら色々と困ったことになるだろう。反差別にこだわり過ぎることは悪平等に繋がりかねない。