俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

安全とコスト

2011-04-19 15:17:01 | Weblog
 なぜ原発を使いたがるのだろうか。CO2を出さないからではない。ただ単に低コストだからだ。
 なぜ低コストなのか。手抜きをしているからだ。多分、今よりも十倍安全な原発は技術的には可能だろう。しかしそのためには費用が百倍ほど掛かるだろう。安全性を犠牲にすることによって低コストを実現しているに過ぎない。安全な原発は実は非常に高コストになる。だから誰も安全な原発など作ろうとしない。
 最も危険な基地と言われる普天間基地も、最も危険な空港と言われる大阪空港も、実は最初から危険だった訳ではない。危険な土地だからこそ地価が安くなりそれが住宅需要を生んで住宅密集地になった。安全を犠牲にすれば低価格になるという典型例だ。
 安全とコストは正の相関関係を持つ。安全は高価を、危険は安価を招く。経済合理性は安全とコストのバランスから生まれる。
 安全な国産の冷凍餃子と危険かも知れない中国製の冷凍餃子のどちらを選ぶだろうか。価格が同じなら誰でも国産を選ぶだろう。価格が違えば各消費者が安全性と価格を天秤に架けて選択するだろう。
 原発エネルギーが現在低コストであるのは安全性を犠牲にしているからに過ぎない。安全性を犠牲にしているから低コストな施設の安全性を高めれば非常に高コストになって作るメリットも維持するメリットも無くなるだろう。
 

バイオエネルギー

2011-04-19 15:01:45 | Weblog
 放射能汚染された土地では作付けが禁止された。政府は無責任だ。禁止すれば責任を免れられるとでも思っているのだろうか。農家に補償さえすれば済むと考えている。これは税金の無駄遣いであり農民を侮辱する態度だ。農民は乞食ではない。
 水田であれ畑であれバイオエネルギー化し易い作物を選んで作付けすれば良い。もし農産物が汚染されていたら政府が買い上げてバイオエネルギーにすれば済むことだ。汚染されていなければ農作物として普通に流通させれば良い。
 現在の土地の汚染度は測定できても1年後の汚染度は予測できないし、更に農産物が土地によってどの程度汚染されるかなど全く分かっていない。分からないなら禁止すべきではない。逆に作付けを奨励して大規模な実験をすべきだ。この実験結果は人類共有の知的財産となる。
 汚染された農作物は食料品としては不適格だが工業材料としてなら通用する。汚染された米やトウモロコシなどをバイオエタノールにすれば太陽光発電よりも高効率なエネルギーとなる。
 基本的に私は穀物をエネルギー化すべきではないと考えている。エネルギーよりも食料品を優先すべきと考えているからだ。世界では多くの人が飢餓に苦しんでいる。
 しかし食料品として使えない農作物なら積極的にエネルギー化すべきだ。農地を放置するよりもエネルギー源にしたほうがずっと良い。バイオエネルギー化は雇用とエネルギーを生む一石二鳥の対策となる。

政官民

2011-04-15 15:42:33 | Weblog
 政府と原子力安全・保安院と東京電力がバラバラに記者会見を開いている。時には相矛盾することもある。なぜ一本化できないのだろうかと不思議に思う。
 実はそれぞれが政府と官僚と企業の立場で発表しているだけだ。政府(枝野官房長官)は政府の立場を正当化するため、原子力安全・保安院は自らの組織の存在意義を否定されないため、東京電力は少しでも有利になるために記者会見を開いている。それぞれが自分に都合の良い情報を流しているだけだ。
 異なった情報が存在することは大本営発表による一元化よりはマシだろう。どれかが本当のことを言っている可能性があるからだ。しかしこれだけバラバラだと情報の消化不良に陥りかねない。
 こういう時こそ政治主導をすべきだろう。決して政府発表に一本化するのではなく、三者が同席すべきだろう。それぞれの発表に矛盾があれば記者会見の場で問題点を明確化して貰いたいものだ。言いっ放しという姿勢は無責任であり国民に適切な情報を提供したことにはならない。曖昧な情報を垂れ流しているに過ぎない。
 バラバラの記者会見は政官民の相互不信の現れであり、政官民が分断していることは菅内閣の指導力が欠如していることの証明だろう。こんな内閣に未曾有の非常事態の解決を任せることは危険だ。後で後悔しても手遅れになる。

想定外

2011-04-15 15:28:32 | Weblog
 「想定外」という言葉で責任逃れができると考えるのは権力者だけだ。権力者は現場を見ようとしない。現場で起こる事実よりも自分の理念を重視するから想定外の事実を黙殺しようとする。見たくない事実を見ないだけだ。
 モンスターペアレント、モンスターペイシェント、モンスターカスタマーがモンスターと呼ばれるのは想定外の要求をするからだ。想定外の要求には個々に対応せざるを得ない。
 事故が避けられないのと同様、想定外の事件は必ず起こる。想定内の事件にはマニュアル通りに対応できるが、想定外の事件には当事者か責任者が速やかにかつ適切に対応せねばならない。マニュアル化できないことに対応することこそ責任者の仕事だ。
 そもそも物事が想定内に収まると考えること自体、とてつもなく傲慢な考えだ。想定可能な範囲が経験の範囲を超えることはまず無かろう。想定外に出会うことなく生きた人など一人もいない。
 理念は常に事実によって修正されるべきだ。理念に拘泥すれば事実を見誤る。原発の安全神話はその最たるものだ。危険な施設だけに安全であって欲しいと希望し、それが歪んで「安全である」という盲信へと変質する。
 初めて自動車を運転する時には充分に注意していても、慣れれば携帯電話を片手に運転するようになるようなものだ。これは熟練ではない、危機意識の喪失だ。

外部電源

2011-04-15 15:08:13 | Weblog
 7日の余震で外部電源の重要性が改めて指摘されているが、随分曖昧な報道が続いている。例えば宮城県の女川原発の外部電源は何系統あるのだろうか。2系統とも3系統とも4系統とも報じられている。
 件の福島第一原発にはどんな外部電源が何系統あったかについてはこれまで何も報じられていない。私は3月29日付けの「致命的欠陥」に書いたとおり、すぐ傍を通っている東北電力からの電源は無かったと考えている。茨城県からわざわざ東京電力の電気を引いていたと思う。今では東京電力と東北電力の2系統の電源があるようだ。
 米農家が米を買うだろうか。建設会社が自社ビルの建設を他社に依頼するだろうか。発電所が他社から電気を買うだろうか。発電所にはタダ同然の膨大な電力があるからだ。
 他社から電気を買うよりも自給自足をしたほうが圧倒的に低コストだ。安全性を軽視して経済合理性を追求するなら、たとえ目の前を通っていようとも他社の外部電源を使うことなど無駄遣いでしかない。しかしこれは危険を伴う合理化だ。
 「送電鉄塔が地震で倒れたため外部電源が失われた」と東電は説明したが、倒れたのは茨城県から遠路はるばる原発に繋いでいた東電の送電鉄塔のことだろう。送電距離が長ければ被災の可能性は高まる。
 3月18日の配電工事を思い出して欲しい。あの工事はどう見ても新たな敷設工事であって復旧工事ではなかった。それまで使っていなかった東北電力のケーブルを引いていたと思われる。今でも剥き出しのケーブルが原発敷地内を通っていて放水車などの作業用車両の障害物となっている。

原発ビール

2011-04-12 15:36:47 | Weblog
 クリアという第三のビールがある。リニューアルをしたらしく頭に「ニュー」が被せられている。しかしこれが信じられない極悪のネーミングだということにアサヒビールは気付いているだろうか。
 new clearはnuclearと同じ発音になる。nuclearは核・核兵器・原子力発電所の意味だ。原発事故に怯える日本人に原発ビールというとんでもない名前のビールを売ろうとするのは狂気の沙汰だ。
 newとclearはどちらも良いイメージの単語だ。しかしこの2つが連なるとnuclearというダーティな言葉になってしまう。
 原発推進者はこんな言葉遊びをしていたようにも思える。原子力発電を「最新の技術を使ったクリーンな」エネルギーと主張していたからだ。
 しかし実際の原子力発電は危険でダーティなエネルギーでしかない。原発の危険性は今回の事故で図らずも実証されてしまったし、原発が吐き出すゴミは現代の技術では処理不可能な放射性廃棄物だ。地中深く埋めるか日本海溝にでも沈めるしかないような、何万年も放射能を撒き散らすどうしようもない危険物だ。
 アサヒビールはまさか原発事故が起こって大勢が被災することになるなどとは思わずに軽い気持ちでnew clearと名付けたのだろうが、現状では不謹慎なネーミングと思われる。この駄洒落は笑えない。早急にnewを「新」と改めるべきだろう。

社説

2011-04-12 15:22:08 | Weblog
 8日の朝日新聞の社説「放射能と避難」を読んで驚いた。5日付けの私の記事「同心円」とそっくりの部分があったからだ。社説には「放射性物質の飛散は風向きや地形の影響を受ける。同心円状に広がるとは限らない。」と書かれていた。私の「同心円」と読み比べて欲しい。偶然による類似とは思い難い。
 私は朝日新聞を非難したい訳ではない。逆に光栄なことであり有難いことだと思っている。私のような無名のブロガーの文章がプロの文章家のヒントになるのならこれまで書き続けた甲斐がある。
 私のブログの読者数と朝日新聞の読者数は何桁も違う。少数の読者に向けて書いた記事が多数者に向けたマスコミで利用されることは大歓迎だ。私はマスコミに背いてでも正しいと思うことを書いている。しかし如何せん無名の1ブロガーでしかない。発言力は乏しい。
 こんな無名の一市井人の意見をマスコミが拾い上げてくれればその影響力は何千倍・何万倍にもなる。ど素人にできることは小さな事実の掘り起こしに過ぎない。それをマスコミが取り上げてくれれば大きな力ともなり得る。
 11日に石原都知事は節電策として自動販売機やパチンコ店の営業自粛を挙げた。これは3月25日付けの私の記事「計画停電」での主張と一致している。偶然の一致かどうかは知る由も無い。
 

安全対策

2011-04-12 15:02:37 | Weblog
 絶対安全な原発はあり得ない。絶対安全な飛行機など不可能だ。絶対安全な自動車など妄想に等しい。どれも比較的安全なレベルに過ぎない。従って事故は起こるという前提に立つことが必要だ。
 自動車は最もよく事故に対応している。エアバッグもシートベルトも車体強度なども事故が起こることを前提にしている。
 飛行機の安全対策は何とも心許ない。パラシュートを積んでいる旅客機は殆ど皆無だろう。事故の大半が離着陸時に起こるからパラシュートは根本的な対策にはならないが、上空での事故が無い訳ではない。そのために上空であろうと離着陸時であろうと事故が起こっても何の対策も無いということになっている。事故が起これば運が悪かったと諦めるしかない。
 原発は事故を起こさないために何重にも安全対策が施されている。事故が起こったらどうするか、ということよりもどうすれば起こさないかが検討されて来た。その結果、事故の発生そのものが想定外とされて、いざ事故が起これば右往左往するばかりでさっぱり有効な対策を取れなかった。
 事故は起こるものだ。事故を無くすことは不可能だ。不可能なことを考えるよりは事故の被害をいかにして最小限に食い止めるかを研究したほうが有効であることは自動車の例を考えれば明白だろう。原発事故は航空機事故とは違って諦める訳には行かない。事故の発生を想定外にすることは責任放棄だ。考えたくもないような最悪の事態も想定しておかなければ今回と同じ失敗を繰り返すことになるだろう。

天災と人災

2011-04-08 15:48:22 | Weblog
 雷や台風に怒る人はいない。天災に対しては耐え忍ぶしかなくその災害は諦めるしかない。地震も基本的には同じことだ。
 人災には怒るべきだ。原発事故の責任は厳しく問われねばならない。東京電力や政府、そして内閣府の原子力安全委員会と経済産業省の原子力安全・保安院は責任を取るべきだ。
 原子力安全委員会と原子力安全・保安院が別の省庁に属する理由が理解できない。縦割り行政の弊害が出て機能不全に陥って当然だ。機能不全にするためにわざわざ別の省庁に所管させているのではないかとさえ勘繰りたくなる。
 この2つの組織は今回の原発事故ではどんな役割を果たしたのだろうか。原子力安全・保安院は後追いでまるで他人事のような姿勢で殆ど無内容な会見をするばかりだし、原子力安全委員会に至っては何をしているのかさっぱり分からない。こんな役立たずの組織は要らない。税金の無駄遣いだ。
 私は誤解していたのかも知れない。そもそもこの2つの組織は原発を安全に運営するための組織ではなく、原発を安全と思い込ませることだけを目的としたプロパガンダのための組織でしかないのかも知れない。国民を騙すことが目的の組織なら尚更不必要だ。
 役に立たないこの2つの組織を統合して「原子力危機管理委員会」と改称した上で役割を危機管理に特化すべきだろう。

幸福

2011-04-08 15:32:52 | Weblog
 安全とは危険の少ない状態だが、幸福は不幸の少ない状態だろうか。とんでもない。不幸こそ幸福の少ない状態だ。
 幸福感とは嬉しい・楽しい・美味しいなどの快感が充たされた状態だ。先に成立する概念は幸福であって、幸福でない状態を不幸と呼ぶ。
 では菅首相の言う最小不幸社会とはどんなものだろうか。幸福は感じないが不幸とも思わない社会とは家畜のような状態だろう。近々されることを知らずに、暖かい厩舎と豊富な餌が与えられた不快でない暮らしのことだ。特別養護老人ホームで暮らす認知症の老人やホスピスで暮らす不治の病の人は最小不幸状態を望む。幸福を諦めたからだ。
 幸福は自らの意志と努力によって獲得すべきものだ。しかし多くの場合それは失敗する。何度失敗しても諦めずにチャレンジし続けた人だけが幸福感を得て、諦めた人は不幸にならないこと、つまりチャレンジしないことを選ぶ。例えば野球部で頑張る高校生は勝利の喜びを得るが、レギュラーになれずに退部した人は諦めを学ばされるだけだ。
 最小不幸社会とは人類の家畜化だ。諦めの蔓延だ。こんな状態を理想とする菅首相はとんだニヒリストだ。だから福島・北関東の農民や茨城県・千葉県の漁民を不幸から救おうとせずに、東京都民の不幸を最小化することだけに腐心している。これが1国の宰相の採るべき態度だろうか。地域のボス猿に等しい。