俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

コロッケの唄

2012-03-20 14:53:05 | Weblog
 「♪今日もコロッケ、明日もコロッケ、これじゃ年がら年中コロッケコロッケ♪」という歌があった。私の友人はこの歌詞に納得せずに言った。「毎日コロッケなら嬉しい」と。昔は脂を使った料理が少なかった。マクドナルドもケンタッキーも無かったから脂の旨みを味わえるコロッケは育ち盛りの中高生にとっては御馳走だった。
 漫画の「オバケのQ太郎」にはインスタントラーメンが大好きな小池さんという脇役が登場した。いつもインスタントラーメン(多分チキンラーメン)を食べていた。その小池さんが結婚して、新妻は毎日腕に依りを掛けて手料理を作った。小池さんはそれでもラーメンが食べたくて仕方が無かった。Q太郎達は小池さんをラーメン欠乏症から救済すべく様々な手を打ったが悉く失敗した。結局、小池さんが寝言で「ラーメン食べたい」と言ったことで妻が気付くというオチだった。
 ジャンクフードであろうとも本人が好きなものはソウルフードだ。逆にたとえどんなに高品質な食べ物であろうとも好みに合わなければ何の値打ちも無い。幸福は客観的なものではなく主観的なものだ。どんな羨ましい境遇であろうとも本人が不幸と感じるなら彼は不幸であり、悲惨と思われる境遇であろうとも本人が幸福感を得ているなら幸福だ。幸福か不幸かを決める尺度は個人の心だ。客観的な尺度は無い。

富の分配

2012-03-20 14:36:12 | Weblog
 国民の富の量が一定なら富の奪い合いとなる。多く奪った者が勝つ。富が増える状態なら最も富を増やした者が勝者だ。富が増える状態、つまり経済成長があった時代には全体の富が膨らんだ。全体の富が増えたから個人の富も増えた。奪い合いではなく分かち合いが行われた。
 なぜ経済は成長したのか。それは国策として重点産業の育成を目指したからだろう。鉄鋼、繊維、自動車など対象を変えながら将来有望な産業を優遇した。現在の政府にはそんな産業政策は無い。唯一保護政策を取っていた原子力産業は破綻した。これが失われた20年の正体だろう。
 隣の韓国ではエコ贔屓と思えるほど一部の企業を優遇している。これが国民経済を牽引している。
 民主党政権は富の分配しか視野に無く成長戦略が欠けている。これが労働組合を支持基盤としる政党の弱点だろう。企業と組合という富の分配と同じ発想で現役と退職者あるいは高所得者と低所得者という対立構造を作って富を分配しようとしている。限られた富を奪い合うのではなく全体の富を膨らませる戦略が必要だ。ゼロサムではなくプラスサムであるべきだろう。利権を奪い合うのではなく利権そのものを作り出さねばならない。
 サッチャー元首相と同様、私も社会主義を嫉妬の政治と考えている。足を引っ張り合うのではなく協力してお互いを高め合うべきだろう。

有害なスポーツ

2012-03-16 15:20:14 | Weblog
 12日に行われた体操のアジアジュニア選手権の個人総合で芦川七瀬選手が優勝した。彼女は背骨が曲がる側湾症という病気を患っており、病気を克服した美談として報じられた。
 たとえ本人の意志であろうともこれは好ましいことではない。私がすぐに連想したのは甲子園で肘痛や肩痛に耐えて登板した投手だ。昔は美談とされたが今では選手生命を奪う暴挙として禁じられている。
 彼女の場合、完治しにくい病気であり、最悪のケースでは心臓を圧迫することもあり得ると言う。多分、競技する時には痛み止めを注射して臨んでいると思うが、選手生命どころか命そのものを損ないかねない行為だ。引退を勧告すべきだろう。
 普通の体操なら健康に良い。血の巡りや関節の働きを良くし気分をリフレッシュさせる。しかし競技としての体操は明らかに健康に有害だ。どんどんアクロバティックになり危険な技が増えている。着地1つを取り上げてもその有害性は明らかだ。着地する時には物凄い力が掛かる。膝や腰などを屈めて衝撃を吸収することが健康のためには望ましい。しかし競技では最も有害な姿勢を強いる。真っ直ぐに立つことを要求する。これは足や腰に最も負担の掛かる姿勢だ。健康な人でも有害な姿勢を背骨の病気を患う人に強制すれば将来、車椅子生活を送るということにもなりかねない。彼女の将来を考えるなら引退を勧告して背骨の負担が少ない水泳などの種目への転向を勧めるべきだろう。

危険分散

2012-03-16 15:06:05 | Weblog
 危険を分散することは重要なことだ。全資産を特定の株、例えば東電や日航に投資していたら酷い目に会っていただろう。預金・貯金・保険などに分散して投資することが望ましいのはこういう事情からだ。その意味で、AIJ投資顧問㈱に全額を預けた組織は投資のイロハも知らなかったということになる。担当者は責任を問われて然るべきだろう。
 仮に10,000人乗りの旅客機が作られてもそれを採用する企業は皆無だろう。なるほど大量輸送できれば経営効率は良くなる。人件費もエネルギー代も大幅に削減できる。それでも採用しないのは、万一事故が起こったら大変だからだ。10,000人に対する補償を抱えればどんな企業であろうとも倒産する。そんな博打のようなビジネスなどできない。
 原発も博打のようなものだ。エネルギー効率がどれほど良くても一旦事故が起これば取り返しの付かないことになる。こんなビジネスモデルは採用できない。
 火力発電も水力発電も危険性はある。火力発電所の爆発やダムの決壊という可能性がある。しかしこれらは分散された危険性だ。原発事故の危険性とは比較にならないほど小さいものだ。実際、誰も直径1㎞のガスタンクなど作らない。危険は分散すべきものであり集約してはならない。

緊急性と確実性

2012-03-16 14:51:54 | Weblog
 原発事故直後にSPEEDIによる放射能拡散予測が公表されなかったのは政府の無知に基づくものとされている。しかし政府が幾らデクノボー揃いであろうともこの情報の重要性を理解している人がいれば公表されていた筈だ。重要な情報とは認識されていなかったようだ。
 なぜか。不確実な情報と見なされたからだ。結果的にはSPEEDIの予測は正しかったが、SPEEDIはあくまで予測するシステムであって事実を告知するシステムではない。更にシステムに入力された放射線量も計測値ではなく推定値だ。推定に推定を重ねた不確実な情報を垂れ流すことは無用の混乱を招くだけだと判断されたようだ。
 しかし緊急時に確実な情報などあり得るだろうか。ビルにいて火災に会ったら、原因や火元などを問わずにとにかく煙の無い方へ向かいビルから脱出しようとするだろう。緊急時に確実な情報を求めていれば逃げ遅れて死んでしまう。
 映画の「日本沈没」にこんなシーンがあり強烈な印象を受けた。主人公の科学者は日本沈没の危険性を説く。しかし政府の役人は「それは不確実だ」と言って否定しようとした。主人公は激怒して叫んだ。「確実になった時には手遅れだ!」と。緊急時対応のできない日本人は今からでもこの古い映画を見て認識を改めるべきだろう。

能力の限界

2012-03-13 15:19:14 | Weblog
 私には真実を知る能力は無いかも知れない。あるいは真実を知り得てもそれを表現する能力が欠けているのかも知れない。ウィトゲンシュタインの言うとおり、語り得ないことについては沈黙せざるを得ない。
 正しいということは証明不可能だ。帰納法を使う限りは「今のところ正しい」としか言えない。鴉は黒い、ということでさえ確実ではない。明日にも白い鴉が見つかるかも知れないからだ。実際のところ突然変異体の白い鴉はこれまでに何羽も見つかっているだろう。従って、多くの鴉は黒いとしか言えない。人間は死ぬ、ということも証明できない。将来、死なない人間が現れるかも知れないからだ。一方、誤っているということは比較的簡単に証明できる。矛盾や反例を挙げるだけで充分だからだ。
 「正しいこと」を主張せず「間違ったこと」を糾弾するばかりでは「不平の豚」に堕落しかねない。トヨタの名言の中に「代案無しで反対するな」という言葉がある。AよりはBのほうがマシだ、というスタンスに甘んじるべきだろうか。

2012-03-13 15:05:08 | Weblog
 レーニンは「国家と革命」で「人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」と書いた。これこそ正に空想的社会主義だ。前段も後段も誤りだ。「人は必要に応じて働き、必要以上に受け取りたがる」が正しい。
 私は理想論を説きたくない。現実論を書きたい。
 人は能力に応じて働くだろうか。あり得ないことだ。人は元来、怠け者だ。いかにして楽をするかを考える動物だ。最小限の労力で最大限の報酬を得ようとする。能力を最大限に発揮しようとするのは能力が評価されて特別な地位を得た人だけだ。普通の人は報酬を得るためにやむを得ずに働く。
 必要に応じて受け取ることもあり得ない。余りにも明白な金ではなく食に限って考えてもそれは明らかだ。人は必要以上に食べる。食べ放題の店では健康に有害なほど食べる。質においても欲望は止め処も無く拡大する。旨い物を食べても満足せず、もっと旨い物を、更に旨い物を求める。人間の欲は限りが無い。
 欲があるから人は働くのだが貪欲は人を滅ぼす。人はまず欲を制御することを学ばねばならない。制御された欲を充たすために働けば人は成長するが、肥大した欲のために働けば欲の奴隷になる。

嫌なこと

2012-03-13 14:49:02 | Weblog
 「嫌なことはやりません」が憲法9条の精神だと橋下市長が発言して物議を醸している。弁護士でもある氏の本心ではあるまい。過激な発言をして問題提起をすることが狙いだろう。
 憲法9条はともかく、嫌なことをやらないことが許される日本の現状には私も憤りを感じる。東北地方の瓦礫を拒絶する人々の我儘さは許し難い。そんな人は東北へ強制的に転居させるべきだとさえ思う。そうすれば東北の人々の苦しみが少しは分かるだろう。権利意識ばかりが肥大した人には義務の重みを理解して貰いたいものだ。
 ところで橋下氏は朝日新聞のインタビューで「嫌なことでもやらなきゃいけないという教育を自分は受けたことがない」と言っているが、氏が大嫌いな日教組の力が非常に強かった三重県の小学校で私はちゃんとそういう教育を受けた。
 小学校1年生の時のことだ。先生が「人の嫌がることを進んでやりなさい」と教えた。当時の私は素直過ぎたようで、すぐにその言葉を実践しようとした。休み時間に校庭に出て毛虫を捕まえて机の上に置いた。隣の席の女の子は嫌がって泣き出した。授業が始まってから先生に「なぜそんな意地悪をするのか」と尋ねられた私は「人の嫌がることを進んでやりました」と得意気に答えてこっぴどく叱られた。「人の嫌がることをやれと言ったが、人に嫌がられることをやれとは言っていない」と。

セクハラ

2012-03-09 15:17:51 | Weblog
 セクハラを肯定する気は全く無いが、過剰な規制が婚姻率を下げる要因となっているのではないだろうか。
 スキンシップという和製英語がある。今では親子関係に限定して使われているがかつては同僚間での関係にも使われていた。軽く触れることを通じて好意度を測ったものだ。今でも中学生から大学生までが不器用なスキンシップを通じて関係を深めようとしている。これは決して悪いこととは思えない。
 職場でのスキンシップはセクハラと見なされるのですっかり廃れてしまった。握手やハグなどの習慣が無い日本人にとって貴重なボディタッチが無くなれば男女の関係は疎遠になる。ボディタッチは親密さを増やす効果があるからだ。
 妻帯者である上司によるスキンシップはセクハラだが、独身者による同僚に対するスキンシップの多くは好意を示すアプローチではないだろうか。
 少子高齢化が社会問題とされている。私個人としては人口の減少を望ましいことと考えているが、もし人口を増やすべきだと考えるなら、独身の男女が親しくなることは良いことだろう。既婚者によるスキンシップはセクハラとして厳しく規制されるべきだが、独身者同士のスキンシップはもっと大目に見ても良いのではないだろうか。

大気汚染

2012-03-09 15:04:56 | Weblog
 環境破壊として放射能汚染ばかりをマスコミは騒いでおり、大気汚染の深刻さは殆んど報じられていない。しかしWHO(世界保健機関)の推計によると日本では毎年3~5万人が大気汚染を原因とする病気で死んでいるそうだ。世界では約100万人、中国だけで約40万人が死んでいるとのことだ。大気汚染は決して克服された過去の問題ではなく現代の差し迫った問題だ。
 大気汚染の原因は5割が車両からの排気ガスで3割が発電によるものと言われている。
 かつて日本軍は中国大陸で毒ガスを作ったとされているが、現代の中国ではそれを遙かに上回る量の有毒ガスが作られている。多くは石炭発電所によるものだが今後は車両の排気ガスの増加によってもっと深刻な事態を招くだろう。
 大気は動く。今は重慶などの内陸部が酷く汚染されている状態だがいずれは西から東への気流に乗って沿岸部を経て日本まで汚染されることになるだろう。
 放射能汚染やCO2による地球温暖化よりも大気汚染のほうがずっと切迫した問題だ。何しろ多くの人が実際に亡くなっているのだから。つまらないことに空騒ぎをするよりも現在起こっている問題に対処すべきだろう。