俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

注意義務

2014-10-22 10:14:06 | Weblog
 アメリカで最初のエボラ出血熱の二次感染者が病院を訪れた時、医師が簡単な検査しかせずに帰宅させたことが「注意義務を怠った」として批判された。しかし現在のように二次感染が騒がれている時ならともかく、まだ西アフリカで感染が広がっているだけの時点でエボラ出血熱と疑えと言うのは無理がある。こんな理屈が通るのなら日本でも発熱した人全員に、エボラ出血熱かどうかの検査が必要になってしまう。
 注意義務という言葉が暴走すれば困った事態を招く。医師が患者を薬漬けにすることが正当化されてしまう。今でも過剰検査や過剰検診が問題になっているのに、それにお墨付きを与えることになる。悪徳医師であれば大喜びで高価な検査を乱発して儲けようとするだろう。これによって無駄な医療費が更に増える。
 特に癌検診は有害だ。X線照射やCT検査によって放射線被曝をする。少数の癌患者を見つけるために不特定多数者を被曝させることはメリットよりもデメリットのほうが多い。
 注意義務という言葉に過剰に反応するのが公務員だ。この言葉を盾にして、公園からは遊具が撤去された。本来なら安全な遊具に改善すべきところを、安全性が100%ではないという理屈を使って管理責任から逃れようとする。
 避難勧告も無責任さの現れだ。災害が起これば責任を問われかねないから避難勧告を乱発する。大雨の度に全域に避難勧告をせねばならないほど危険な土地だと分かっているのなら、旧山古志村のように自治体丸ごと他所に移転すべきだろう。
 台風19号が岸和田市に上陸したが、大阪市は避難勧告を出さなかった。敢えて避難勧告をしなかったところに大阪市の気概と責任感を感じる。無責任なお役所仕事を嫌う橋下市長が首長だからこそ、大阪市役所は責任ある決断をできたのではないだろうか。「狼が来た!」と騒ぐばかりではなく、正しい情報を提供することが自治体の責務だろう。

ホームタウンデシジョン

2014-10-22 09:42:33 | Weblog
 ホームタウンデシジョンという問題がある。ボクシングなどのスポーツの国際試合で地元の選手やチームに有利な判定がしばしば出される。観客の殆んどが地元国の人でありその観客に媚びるからこんなことが起こる。観客のことだけを考えるならこれでも良いのかも知れないが、映像が世界に発信されれば問題になる。かつて「中東の笛」と呼ばれた不公正な判定は批判に晒されてかなり改善された。今でも露骨に不公正な判定をするのは韓国などの一部の国だけだ。
 かつてアメリカで、黒人の学力向上を狙って黒人枠が設けられた時代があった。つまり高校や大学の入試で黒人優遇策が採られた。しかしこれは学力の低下を招き、白人が黒人を優遇しない学校を選ぶようになって、格差は却って拡大した。こうして優遇策は逆差別として否定された。
 様々な事情で人は優遇される。多くの場合、それは善意に基づいている。観客を喜ばせたいとか黒人の社会的地位の向上とかいったことは決して悪いことではない。しかしそれが度を越えれば問題になる。
 女性の社会的地位を高めたいと考えることは正当だ。しかし資質の伴わない女性を大臣に据えることは不当だ。優先すべきことは公僕としての資質だろう。良い仕事のできる人を選ぶことが最優先であり、資質が備わっていればそれが男であろうと女であろうと構わない。男であれ女であれ資質を欠いた者を大臣に任命すべきではない。それは政治の冒涜であり国民に対する裏切りだ。
 最適者であればたとえ外国人を大臣にしても構わないと私は考えている。民間企業には既に大勢の外国人経営者がいる。資質以外を基準にして大臣を選ぶのは半分以上を占める女性有権者を狙った人気取り策に過ぎず、ホームタウンデシジョンにも等しい視野の狭い愚策だ。
 小説以外の芸術においてその作者の性が問われることは殆んど無い。性の違いで作品の評価を変えればそれは愚劣な工作であり捏造だ。性別を無視することが正当な評価だ。
 小渕前経済産業大臣の政治資金規制法違反は明らかであり、収支報告書のデタラメぶりはあの号泣記者会見の野々村元県議と同レベルだ。大臣辞任だけではなく議員辞職にも相当すると思う。こんなデタラメが、週刊新潮が報道するまで誰も気付かなかったとは全く不可解な話だ。それはこの程度のことなら多くの政治家がやっているからだろう。

男女差

2014-10-20 10:34:20 | Weblog
 スポーツであれば殆んどの種目が男女別に行われる。もし男女の垣根を取り払ってしまえば女性の入る余地は殆んど無い。それほど格差は顕著だ。
 将棋・囲碁においても男女が分かれている。こういう知的ゲームにおいて男女差は無い筈だが、現実として差があるから女性が別枠になる。
 概してトップを争えば男性が勝つ。それは男性のほうが個体ごとのバラ付きが大きいからだ。知能テストにおいて平均点は女性のほうが高いが、最高グループでも最低グループでも男性のほうが多いらしい。女性は中央付近に多く分布する。
 哺乳類のオスとメスを比べればオスのほうが構造が単純だ。メスは出産と授乳という自分の生存のためには不必要な機能を持たねばならない。これは授精という簡単な機能しか持たないオスとの大きな違いだ。必要な機能が少なければ特化し易い。これは速く走るという機能に特化したレーシングカーのようなものだ。他の機能、例えば耐久性や快適性や安全性などを犠牲にすることによって市販車よりずっと速く走ることができる。しかし速く走れるレーシングカーを市販車よりも優れた自動車だと考えるのは一部のオタクだけだろう。もしレーシングカーで街を走れば危険極まりない。あくまで特殊な環境での最適車に過ぎない。特殊な環境での最適車は他の環境では最不適車になり得る。
 男女差はレーシングカーと市販車の違いのようなものだ。出産・授乳という機能を持たずに済む男性は生存競争に有利な方向に特化できる。だから体力の男女差が生じる。
 体力以外については何が適性なのか分からない。例えば寒さに強ければ暑さに弱いだろうし敏感と過敏の差は紙一重だ。今後、環境がどう変わる分からないから適度に個体差があるほうが全滅を免れられる。だから出産・授乳という役割を担わない男性において、より大きな個体差が生まれる。市販車という制約が無ければレーシングカーや戦車や消防車やソーラーカーなどが可能なのと同じことだ。
 オスの個体差が大きいのは、環境の変化に対応するための保険であり実験体と言っても良かろう。これは個体にとっては諸刃の剣だ。レーシングはレース場であれば最適車だが市道に出れば欠陥車だ。特化したことによる適者は異なる環境においては不適者になり得る。よく切れる剃刀が脆いように特定の環境に適応した個体は他の環境では弱い。個体の生存にとっては不利になるほどに変異の幅が大きいから男性の寿命は女性よりも短いのだろう。

反欧米

2014-10-20 09:51:37 | Weblog
 最近、欧米およびそれに追随する日本のマスコミの報道が信じられなくなって来た。キリスト教を善、イスラム教を悪とする姿勢が余りにも露骨になっているからだ。
 9.11アメリカ同時多発テロの際、ブッシュ大統領は「テロとの闘い」と言ったが、実は異教徒との闘いだろう。
 サダム・フセインもオサマ・ビンラディンも当初はアメリカの傀儡であったことは周知の事実だ。同じようなことをアメリカは中南米でも散々やった。傀儡が自主性を持とうとすると言い掛かりを付けて殺すというパターンだ。
 キリスト教徒は異教徒を人間と認めない。中世の魔女裁判では、魔女と自供した人は悉く死刑にされた。自供すれば減刑するという約束は総て反故にされた。それは約束とはキリスト教徒間でのみ有効であり魔女との約束は無効だという論理に基づく。
 十字軍のタテマエは聖地奪還だが、その実態は略奪と侵略に過ぎなかった。目的に適った戦闘は余りにも少ない。
 ネイティブアメリカン(インディアン)に対する仕打ちも酷いものだ。土地を共有物と信じていた彼らを騙して二束三文で取り上げた。西部劇では幌馬車隊がインディアンに襲われて騎兵隊が救うというパターンになっているが実際には騎兵隊が一方的に侵略していたらしい。仮に幌馬車隊が襲われても、当時は通信手段が無かったから救援要請さえできない。あの広いアメリカで市民の救援など100%不可能であり、傭兵だけが頼りだっただろう。だから今でもアメリカ人は銃を手放せない。頭の皮を剥ぐという行為を始めたのも白人だ。モヒカン刈りの頭皮なら一目で識別できるので、インディアン狩りの報酬は頭皮に対する対価だった。アメリカ史は捏造だらけだ。
 ペリーが日本に開国を迫ったのは捕鯨基地にするためだった。当時、鯨油は貴重な燃料だったからアメリカは世界一の捕鯨国だった。石油のほうが安価になれば捕鯨から撤退して捕鯨国を非難する。豹変し過ぎだ。
 原爆の投下も非キリスト教徒の日本人が相手だから平気でできた。日本人は原爆実験のためのモルモットのような位置付けだ。
 東京裁判は捏造の極みであり茶番劇だ。「平和に対する罪」や「人道に対する罪」といった事後法をでっち上げて、国際法に背く遡及処罰をしている。これは裁判と呼べる代物ではない。
 日中韓で歴史認識が問題にされているが些細な問題だろう。余りにもスケールの大きい、白人による新大陸侵略と大虐殺と奴隷支配と比べれば小さな出来事に過ぎない。白人による暴挙を問わずにローカルな歴史に拘ることはグローバル性を欠いている。

ランドセル

2014-10-18 10:16:31 | Weblog
 最近、欧米や中国でランドセルが注目されているそうだ。子供のための鞄としてではなく機能性・耐久性が優れた大人のためのバックパッキングとして評価されているらしい。
 当然のことだと思う。ランドセルほど多くのモニターの意見に基づく商品は珍しかろう。毎年100万個以上売れる鞄など世界中のどこを探しても見つかるまい。ギネス級のヒット商品と言っても良かろう。消費者からは連日、莫大な数の意見が寄せられるだろう。フィット感や丈夫さ、仕切りの機能などについて天文学的な数の要望が寄せられ、熾烈な競争をしている各メーカーは他社に勝つために改善に改善を重ねた。ランドセルには日本人全員の知恵が集結されている。世界に誇れる逸品となって当然だ。
 日本文化には奇妙な特性がある。権力者や文化人は碌な物を作らないが、庶民は良い物を自分の生活に取り入れる。世界に衝撃を与えた浮世絵は庶民の娯楽だったし、今や世界に誇るサブカルチャーである漫画やアニメは親や教師にとっては目の敵だった。草履はビーチサンダルとして世界中に普及し、風呂敷は世界で最もエコなラッピング用品だ。日本の庶民には良い物を識別する能力が備わっており、それが海外で評価されてから初めて画期的な製品だったと気付かれる。
 青色LEDのような最先端技術だけではなく、日本人の暮らしは素晴らしい文化の宝庫だ。ランドセルのようにクール・ジャパンとして評価されるべきものはまだまだ沢山あるだろう。
 私は漢字かな混じり文は世界に誇るべき文化だと思っている。表音文字と表意文字の双方の長所を生かす表記はどこにも無かろう。良いものなら何でも取り入れるという日本人の長所が現れている。韓国ではようやく漢字が見直されつつあるようだ。ハングル一辺倒にしたせいで韓国は日本と中国の文化から切り離されて誤った国粋主義に向かってしまった。この偏狭さが文化の発展を妨げ`Don't Korea'が「不正をするな」の意味で使われるほどの国民性の劣化を招いてしまったのではないだろうか。

2014-10-18 09:41:42 | Weblog
 自然現象は目的を持たない。台風は条件が揃えば発生してその後の気象条件に基づいて移動するだけだ。地震は大地の歪みが大きくなれば発生する。これらに目的は無い。条件が整えば勝手に発生する。自然現象を擬人化して目的論的に解釈すべきではない。
 その一方で生物には目的がある。自己の生存と繁殖だ。この2つの目的に背く個体は淘汰される。生物の総ての器官はこの目的を達成するために機能する。自然を目的論的に解釈してはならないが生物の活動は目的論的に説明できる。宗教は自然現象まで目的論的に解釈しようとして嘘を並べるが、生物は生物学的あるいは進化論的な目的論で説明できる。
 有害な物を食べた動物は下痢をする。これは有害物を体外に排出するという目的に適った反応だ。この際、酸に対するアルカリのように毒消しになる薬であれば有効だが、通常使われる下痢止めは腸の働きを抑えるだけなので有害物を体内に留めることになり却って危険な状態を招く。
 打撲をすれば腫れて熱を持つ。これは血流を増やして患部を治癒するための防御反応だ。冷やして腫れを引かせることは治癒の妨害になる。
 生物の体は合目的的に作られている。そのことを理解せずに不快な症状だけを抑え込もうとする対症療法は殆んどが有害だ。
 蚊に刺されれば痒くなる。これも目的があってのことだ。多分、蚊に刺されても痒くならない体質の人はかつていただろうし今もいるだろう。しかしこれは不適応と言うべき変異だ。蚊のような病原体を媒介する虫に刺された場合、不快であるほうが適応体と言える。
 デング熱で騒いだ東京やマラリア感染の危険がある南国であれば蚊の危険性を理解して避けようとする。しかし通常人が蚊を嫌うのは刺されると痒いからだ。実際、虫刺されの薬は感染症の予防薬ではなくただの痒み止めだ。人は感染症を恐れず痒みを嫌う。だから蚊に刺されたら不快を感じることが感染症の予防のために役立っている。
 痛みを殆んど感じない人がいる。彼はいつも傷だらけらしい。それは痛くないために傷を怖がらないからだ。このように痛みが傷の予防力として働く。蚊に刺されても不快を感じない人は蚊を余り嫌がらない。だから感染症に罹り易い。蚊に刺されてすぐに痒みや痛みという不快感があるからこそ人は蚊に刺されまいとして、それが感染症を予防する。痒み止めを虫刺されの薬と思っていることこそ人類の愚かさの証明だ。脳よりも体のほうが賢いから、体は蚊に刺されれば不快を感じてそれを回避しようとする。人類は愚かなので重大な支障となる感染症を恐れない。だから痒みという不快感が最も有力な防疫策となる。体は脳以上に合目的的に反応する。これは進化の賜物だ。不快を緩和するだけの対症療法は人類の浅知恵の証しだ。不快な症状を警鐘と捕えて真因に対処することこそ必要だ。

2014-10-16 10:14:34 | Weblog
 鮭の握り寿司をサーモンと呼ぶのはそれが元々寿司ネタではなかったからだ。天然の鮭はかなり高い確率でアニサキスという寄生虫に取り付かれており、これを殺すために塩漬けや干物にしてから食べていた。生きたアニサキスを食べるとアニサキス症と呼ばれる激しい腹痛を起こすそうだ。
 生で食べられるサーモンはアニサキスに寄生されていない。それはアニサキスが殆んどいない南半球の海で養殖されるからだ。なぜか知らないが鮭類は北半球にしか住んでいない。そのために鮭類と共生するアニサキスも大半が北半球に住む。アニサキスが殆んどいない南米の海で養殖するからチリ産の鮭は安全だ。日本が輸入する鮭類の4割以上がチリ産なのはこんな事情からだ。
 しかし今後もチリが鮭の養殖のために良い環境であり続けるとは思えない。チリの海にアニサキスが殆んどいないのは寄生主になる鮭がいなかったからであり、常時鮭が住むようになればアニサキスも増えるだろう。これを防ぐことは難しい。養殖場を海から隔離しない限り不可能だ。
 南極の基地で暮らす人は滅多に風邪をひかないそうだ。寒過ぎるためにウィルスが生きられないためらしい。ところが本国から物資が届く度に風邪が流行する。物資にウィルスが付着しているからだ。
 病原体や寄生虫を根絶することは難しいしその拡散を防ぐことさえ困難だ。日本ではデング熱の拡散を防げなかったし、アメリカでさえエボラ出血熱を国内感染させてしまった。感染症の拡大を防ぐ最も有効な方法は水際で防ぐことだ。江戸時代の鎖国政策はコレラやペストを防ぐ効果もあった。梅毒がアメリカ大陸から運ばれて世界中に広まったように、グローバル化は地域の病気を世界中に拡散させるという負の側面も併せ持つ。
 人類発祥の地であり遺伝的多様性が最も豊かなアフリカが文明の起源となれなかったのは病原体との戦いに勝てなかったことも一因ではないだろうか。エボラ出血熱やエイズ(HIV)に限らず疫病の存在は人類にとって大きな脅威であり続けている。アニサキスのいない海で安全な鮭が得られるように、病原体と戦うよりも逃れようとすることのほうが利巧な戦略だろう。旧ロシア軍はナポレオン軍やナチスドイツ軍と戦うことよりも撤退を重ねることによって勝った。世代交代の早い病原体は進化の速度も早いので人類が病原体との競争に勝つことは極めて難しい。新しい治療薬を開発しても病原体はそれを上回る速度で進化して耐性を持つ。このイタチごっこは勝ち目の無い競争ではないだろうか。私は核兵器よりも病原体によって人類が死滅する可能性のほうが高いのではないかとさえ思っている。

限界

2014-10-16 09:34:30 | Weblog
 人は知覚可能なものしか知覚せず、思考可能なものしか思考せず、理解可能なものしか理解できず、言語化可能なものについてしか語れない。
 知覚できなければ怖がることさえできない。サメが傍に迫っていてもその姿を見るか攻撃されるまで認知できない。知覚できない放射線は機械を使って初めてその存在を知る。
 知覚できないことを科学技術によって知覚できることは素晴らしい。しかし思考できないものや理解できないものは変形させることによって思考可能・理解可能にされている。例えば夢は最も把握し難いものの1つだ。曖昧であり論理以前の世界だからだ。夢の中では私が同時に他人であったり因果性に背くことも起こる。それを把握するために実際に見た夢が捻じ曲げられる。丁度、伝言ゲームで当初矛盾していた話がゲーム中に辻褄合わせされるように、事実に忠実であるよりもそれまでに構築されていたパラダイムに合うように変形される。思考や理解が可能なものに変えるために秩序付けや簡略化が行われる。
 質の違いを量に置き換えることも思考を歪める。例えば「誰が一番好き」という考え方は間違っている。個々人に対する評価は質的に異なっているから量に還元できない。比較不可能なものを無理やり比較可能にしようとするから質の違いを量の違いに摩り替える。
 言語化できないことを伝えようとすれば大変な困難を伴う。それを表現するためには1冊の本か1編の映画が必要だろう。それでも充分には伝わらない。優れた絵画には言語を超えた深い思想があると言う。ピカソは戦争への怒りを「ゲルニカ」で表現したそうだ。私にはさっぱり分からないが分かる人にはその怒りが強烈に伝わるのだろう。
 芸術によって言語以上の表現が可能なら、論理を一旦保留することによって夢を正確に思い出すことも可能になるのではないだろうか。我々は単純化・数値化・言語化といった把握し易くするための技術に余りにも依存している。論理以前の混沌を素直に受け入れられれば、それまでは思考できなかったことも思考できるようになるのではないだろうか。

勉強(2)

2014-10-14 10:23:42 | Weblog
 リタイアした老人は人それぞれに勉強する。好きなことを勉強して構わないが、どうせ学ぶのなら、残りの人生の短さも考慮して、今後の生活に確実に役立つことを学んだほうが良かろう。私は①医学②科学を推す。私の専門ジャンルの哲学や心理学は興味のある人が学べば良い。あるいは語学については、海外への旅行や移住を考えている人以外にはお勧めできない。語学は時間が掛かる割には得るものが少ない。
 なぜ医学が一番なのか。それは確実に自分のためになるからだ。医師は病気についての技術者だが健康の専門家ではない。その何よりの証拠は医師の平均寿命が日本人の平均よりも短いということだ。医師は病気の標準治療を知識として持っている技術屋に過ぎず、健康については何も知らない。医師は一部の病気の治療法を知っているだけだ。これは「すき家」の殆んどの店員が栄養学について無知であるのと同じようなものだ。
 医学は本来、薬学と栄養学も含めた総合科学だ。そこまで踏み込めば自分の健康のエキスパートになれる。
 食と健康について、人は知っているつもりでいる。よく知らなくても知っているつもりでいることが一番危険だ。だから簡単にデマに踊らされる。コゲや食品添加物を必要以上に恐れるのは確かな知識を欠いているからだ。必須アミノ酸や必須脂肪酸の存在も知らないから炭水化物と野菜に偏重した食事を摂って健康を損なう。米とパンが砂糖と同じ澱粉質の塊りに過ぎず他の栄養素を殆んど含まないということさえ知らない。私は白米とパンを典型的ジャンクフードだと考える。マスコミによる商業主義的健康の嘘を見抜き、薬に頼らない真の健康を目指すべきだ。
 科学の長所は正確な知識であることだ。実権によって検証された科学であれば数学の次に厳密な学問であり得るだけに無駄にならない。科学の範囲は広すぎるが一番のお勧めは気象学だ。気象について学べば気象庁が発表する情報を深読みできる。気象庁はデータと予報を同列にして発表するが、これは素人を想定した誤った手法であり、この2者は全く異なる。データは事実だが予報はデータに基づいた推測だ。予報は無数にあり得る。予報の蓋然性を理解して最大限に活用するためには自ら気象について知らねばならない。天気図を読めるようになるだけで気象に関する理解は格段に高まる。大袈裟な言い方だが、気象学は命を守る。昨今のように自治体が無責任に避難勧告を乱発すればそれが本当に危険かどうか分からなくなる。気象学を学べば自分にとって必要な天気予測が可能になる。

演繹法

2014-10-14 09:42:29 | Weblog
 帰納法で証明することは極めて難しい。「カラスは黒い」ということでさえ帰納法では証明できない。たとえ100万羽のカラスが黒いということを確認できても次の1羽も黒いとは言い切れない。
 この点、演繹法は便利だ。様々な定義を設け、その中に「黒い」を含めれば済む。そうすれば黒くなければカラスではなくなる。白いカラスが現れてもカラスに似た亜種か突然変異のアルビノとして例外扱いにできる。
 演繹法は便利だが独断や独善に陥り易い。科学的事実であれば演繹しても問題は生じにくいが、本来、演繹できない経験的事実まで演繹され勝ちだ。「期待される人間像」とか「理想の家庭」などが想定されればそうでない人は否定される。昨今のキャリアウーマン重視の風潮は専業主婦という業務の重要性を否定する。育児の重要性と難しさを不当なほど軽視している。演繹法を乱発すれば視野が狭くなり価値の多様性が認められなくなる。
 あるいは量を無視した主張も迷惑なだけだ。放射能や農薬が危険であることは事実だが微量であれば有害性は殆んど無い。それにも拘わらず「1マイクロシーベルトも許さぬ」と馬鹿なことを言う人がいる。地球上に放射能ゼロの場所など無い。
 私は、万有引力の法則のような絶対確実なもの以外については極力演繹法を使わないように心掛けている。代わりに確率論を使う。水泳が体に良いかどうかはよく分からないが多分良いだろうと考えて毎日泳ぐ。合成保存料の危険性もよく分からないが、無添加食品による食中毒の危険性とを秤に掛ければ保存料を使った食品のほうが安全だろう。
 杞憂は正当だ。天(星)が落ちて来ることも大地が崩壊することもただの杞憂ではない。この憂慮は演繹法では解消できない。あくまで確率的に、そんな目に会う可能性が極めて低いと指摘できるだけだ。
 学校で教わったことやマスコミが報じたことを無批判に信じてそれを演繹しようとすることは極めて危険だ。例えば遺伝子組み換え農作物の安全性は100%確実ではない。しかし危険と証明されていない物を毛嫌いして最先端技術から取り残されることは日本の農業を破綻させかねない。薄いグレーに対しては薄いグレーとして扱うべきだろう。原材料や飼料として活用しながら食用としての可能性を探るという方向性のほうがずっと良かろう。
 朝日新聞による嘘を信じて誤った主張をしていた人も演繹の罠に嵌っていた。前提が誤っていたのだから改めて事実に基づいて考え直さねばならない。演繹法は事実よりも理念を優先させかねない危険な手法だ。