電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

電脳徒然草

2004-09-27 09:06:23 | 文芸・TV・映画
 最初にブログを始めるとき、ブログの名前を「電脳徒然草」にしようかと思った。私の知り合いのひとりが、「電脳草子」というエッセイを自分のHPに書いていて、それがとても気に入っていたのだ。しかし、『徒然草』があまりに有名なのと、『土佐日記-Tosa Blog』というブログがあり、それは紀貫之の『土佐日記』を原文と現代語訳を載せて紹介したものだった。「電脳徒然草」というタイトルだと『徒然草』をWeb上に掲載したものと誤解されるかも知れないということで、止めた。

 そのとき、いつか、自分でも『徒然草』の現代語訳を、『電脳徒然草』としてアップしてみるのもいいなと思った。そんなわけで、今日、佐藤春夫の『現代語訳・徒然草』(河出文庫)を参考までに買ってきた。読んでみて、引き込まれた。徒然草の現代語訳を読むは、初めてだ。大きな活字で組んであるので、読みやすい。

 ところで、日本の古典を電子ブックにしている最大のサイトが「Japanese Text Initiative」というバージニア大学とピッツバーグ大学の協同プロジェクトであるというのは、考えさせられてしまう。ここには、『万葉集』や『源氏物語』を初めとして、日本の古典が原文でそろっているし、漱石や鴎外などの近代文学もそろっている。もちろん『徒然草』も当然ある。日本には、「青空文庫」というサイトがあり、著作権が切れた近代文学を順次ボランティアの協力でアップしているが、古典については、最早日本の大学でさえ追いつけないところまで行っている。つまり、日本の古典研究は、このサイトのお世話にならざるを得なくなっていると言って良い。

 さて、Web上の『徒然草』現代語訳について調べてみると、すでに、佐藤国春さんの『超現代語訳 徒然草』と吾妻利明さんの『徒然草』の二つがあった。先を越された感じだ。特に、吾妻さん、6年がかりの翻訳がやっと最近終わったようだ。最終の「あとがき」が「2004年9月12日行楽日和の日曜日に」なっている。どちらかというと、前者の方が素直な訳になっており、後者の方が超現代語訳になっている。ただ、後者は、検索機能が付いており、原文でも翻訳でも言葉からそれがどこに出てくるか検索できる。とても便利な機能だ。私が、大学時代にこんなのがあればとても楽だったろうにと思う。両方とも、現代語訳としては、私には少し不満がある。その分、私も何かできるかも知れない。参考までに、第八段の原文と訳文を掲載しておく。

第八段 世の人の心惑わす事

■原文(岩波文庫版より)
世 の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。
匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。九米の仙人の、物洗ふ女の脛の白きを見て、通を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。

◆佐藤国春訳
人を惑わせるもの、それは色欲。人の心などは本当に未熟なのである。
香りは一時的なものでしかなく、それを承知で衣裳に香を焚く。が、そのようにやがて消え行くものであったとしても、なかなか得ることの出来ない香りを求めようとするのは、これまた当然のことといえよう。
久米の仙人が洗濯をしている女性の肌を見て神通力を失ったというのも、確かに納得の行く話である。手足といった肌が美しく、ふっくらと色づいているその姿は、香りのようなうわべだけの物ではない。となれば、なるほど仙人が力を失ったというのも納得できる話だろう。

◆吾妻利明訳
男 の子を狂わせる事といえば、なんと言っても性欲がいちばん激しい。男ごころは節操がなく身につまされる。
香りなどは、まやかしで、朝方に洗髪したシャンプーのにおいだとわかっていても、あのたまらなくいいにおいには、ドキドキしないではいられない。空飛ぶ術を身につけた仙人が、足で洗濯をしている女の子のふくらはぎを見て、仙人からただの嫌らしいおっさんになり空から降ってきた、とかいう話がある。二の腕やふくらはぎが、きめ細やかでぷるぷるしているのは、女の子の生のかわいさだから変に納得してしまう。


コメント (1)
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