原稿依頼 1
本は私の著作です。
今年、日朝協会は結成70周年を迎える。いろいろな行事が予定されているが「70年史」もそのうちの一つだ。京都の編集部に送った原稿である。
日朝協会京都府連70周年を振り返って
初心忘れず世界平和のために
大橋 満
私が初めて日朝協会の公式行事に参加したのは、1962年4月5日、日朝協会第七回大会(比叡山根本中道講堂)でした。
日朝友好を進めなければならないと思ったのは、子どもの頃、私の隣に朝鮮人がいたからです。
私は、1953年4月から3年間、乙訓中学校(現在は勝山中学)にかよっていました。二度クラス替えがありましたが、なぜか隣の席に同じ朝鮮の友人がいました。三守(サムス)という名前でした。随分後になって当時の担任の先生から「彼は大橋君の隣にいれば普通に授業を受けているが、別のところに座ると横にいる者の邪魔をして授業にならない。君には申し訳なかったが、職員会議で決めたのだ」と聞きました。このことが私の一生を左右する出来事になるとは、思いもしませんでした。
当時は中学校を卒業すると就職する子どもが多く、我が家は母子家庭で、兄と妹がいましたから、通勤に近くて一番給料のよい会社に入って夜学に行くことを決めていました。私は希望する会社と学校に入りましたが、サムスはどこにも就職できませんでした。
その理由は、彼が朝鮮人だということだけでした。私はその時初めて、世の中に「朝鮮」差別があることを知り、腹が立ち怒りを覚えたのを昨日のことのように覚えています。
20歳になった頃、彼がひょっこり私の家にきました。「お!どうしてたんや?」という会話から彼が苦労してきた話を聞き、「子どもができて、退院させる金がないので貸してくれ」というのです。勿論私の家には余分のお金はありませんでしたが、「おれな、背広を買おうと思って貯めている金があるのでそれを使えばええわ!」といって渡しました。
何日かしてまた彼が来ました。彼は私を自分の家に連れて行きました。そこは、桂川の堤防ぞいにある「0番地」というところでした。藁ぶき小屋で一間しかない家でした。「まあ座ってくれ!」といわれるがままにその土間に座わり周囲を見ましたが何もありませんでした。彼は、男の子が生まれたころ、別にアパートを借りたこと。そうしてどんな仕事をしているか説明を聞いたのですが、どう考えても暴力団の手伝いみたいなことでした。
彼は花札を出し、いかさまの方法を教えてくれました。ヤクザ映画の高倉健か勝新太郎の話を聞いているようでした。
私は、夜学を卒業後労働組合活動と日本人と朝鮮人が仲良くしようという「日朝協会」の活動をしていることを話しましたが、どちらからもお金についてはふれませんでした。私が留守のときに、貸したお金を返しにきたと母から聞きました。
40歳をすぎた頃、京都市内で中学1・2年の有志同窓会をしました。まさかと思っていたサムスが韓流スターのような息子を連れて参加してきました。当時彼は、そちら(裏)の世界では、「長」がつく地位だったのでみんなびっくりしました。一人づつ立って近況報告が始まりました。
サムスに順番が周り、みんな何を言い出すのか、かたずを呑んでシーンとなりまた。
そこには昔の悪さ坊主の彼はなく、にこにこして話を始めました。今日は子どもをつれてきました。そのままの俺を見てもらおうと思って・・・
彼は、若くて結婚した経緯やダンプに乗っていたことや、嫁とそりが合わなかったことまで話し、子どもができて退院する金がなく大橋君に借りて助かった。その時の子がこの息子で日本名を「みつる」とつけました、というのです。私もびっくりしましたが、20数人いた参加者全員が、子どものころは悪さばっかりしていた彼が、こんなにもすなおな人だったのだと感激したのでした。
彼は、食事もそこそこに行くところがあるのでお先に失礼します、と息子にも挨拶させて帰って行きました。後になって、その時の思い出話は、みんなサムスのことでした。
50歳を少しこえたころ、彼の身体はボロボロになり、帰らぬ人となったと聞きました。
私は、中学生の時以来70年近く「日・朝・韓友好」のために努力して来ました。何としても朝鮮差別をなくさなければならないと思っています。
これからのアジアと世界の平和を考えるとき、日本国民と朝鮮・韓国国民の友好親善が、大きな役割を果たすことに確信をもって命のある限りこの道を歩んでいきたいと思います。
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