その昔、信濃追分から北国街道を辿った旅人が、
♪右は越後へ行く北の道、左は木曽まで行く中山道♪(by 狩人)
とは歌わなかっただろうが、四阿山や志賀の山々、北信五岳などを平地から眺めながら,
次第に近づく妙高山とその後ろの火打山を見た時に、ああようやく越後に入ったか!と感慨に耽ったであろうことは想像に難くないので、妙高山が越後を代表する山であったことは間違いないだろう。
が、北国街道が越後に入っても、焼山はすぐには見えず、上越市中郷区の新井新田辺りでようやくチラッと見えたと思ったらだんだん遠ざかるので、その頚城三山をもって、越後三山と呼称するのはちょっと疑問符。
それと比べて、上州から延々山道を辿り、清水峠を越え、魚沼の盆地に降り立った旅人が、まず峩々たる八海山に目を見張り、進むにつれ駒ケ岳、中ノ岳が現れ、三山がどんどん肉薄してくるのを目にしたら、これぞ越後屈指の三山だと思うのではないだろか?
やはり魚沼三山が越後三山の呼称に似つかわしい、かと。
我ながらこじ付けのような考察。
では、頚城三山を越後三山とする根拠とは?知ってる方は教えてください
(続く。いつになるかわからんが)
♪右は越後へ行く北の道、左は木曽まで行く中山道♪(by 狩人)
とは歌わなかっただろうが、四阿山や志賀の山々、北信五岳などを平地から眺めながら,
次第に近づく妙高山とその後ろの火打山を見た時に、ああようやく越後に入ったか!と感慨に耽ったであろうことは想像に難くないので、妙高山が越後を代表する山であったことは間違いないだろう。
が、北国街道が越後に入っても、焼山はすぐには見えず、上越市中郷区の新井新田辺りでようやくチラッと見えたと思ったらだんだん遠ざかるので、その頚城三山をもって、越後三山と呼称するのはちょっと疑問符。
それと比べて、上州から延々山道を辿り、清水峠を越え、魚沼の盆地に降り立った旅人が、まず峩々たる八海山に目を見張り、進むにつれ駒ケ岳、中ノ岳が現れ、三山がどんどん肉薄してくるのを目にしたら、これぞ越後屈指の三山だと思うのではないだろか?
やはり魚沼三山が越後三山の呼称に似つかわしい、かと。
我ながらこじ付けのような考察。
では、頚城三山を越後三山とする根拠とは?知ってる方は教えてください
(続く。いつになるかわからんが)
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