例によって、関越道小千谷ICで降りて国道117号から県道49号、関越道山本山トンネルの上を越える信号のない道を疾走。少し走ると左手に広大な綺麗に整備された農地が現れる。いつもここを通る時に気にはなっていたのだが、その時その時の目的地に気が急いていて素通りしてきた。
ちょっと寄っていこう。左折して進み、稲刈り目前の綺麗な水田のど真ん中に車を止める。
360度、ずっと田んぼ。
ずっと先の、小高くなった場所まで来ると碑が二つ並んでいて、緑野流水
もう一方の碑には、
碑文が刻まれている。なかなか興味深い内容だが、写真の文字を読むのはなかなか大変だと思うので、
原文のまま書き出すと、
霊峰八海を仰ぐ信濃川左岸の高台にあって池沼の畔に往古から営々と水田を培ってきた池ヶ原平は雨乞いの絶えない郷であった。
江戸期新田開発が急速に進められ大いに村落の形成を助長したが一方度重なる沼池堤の普請を要した。明治に至り区画の整理を企てながらも養水の乏しさが要因で挫折と伝えられている。正に用水の湧養と農地の拡大整備は開村以来積年の希いであった。
やがて昭和に入り大戦後食料の増産は国家の急務とされ農地改革を経て客土等の土地改良が勢いづいた。
時に昭和二十五年 国鉄発電事業水路トンネルの掘削により大干魃を招くが関係者の努力が実りトンネルから機械揚水による水源の確保がなされこれを契機に古田八十三ヘクタールの耕地整理が実現した。次いで昭和四十三年 東南部に隣接する丘陵地と塩殿地内獅子山平八十ヘクタールの開発を意図して池ヶ原土地改良区を設立。信濃川本流から百四十メートルの揚水管水路工等画期的な難工事が竣成し畑林地の荒蕪地が夢に見た美田に生まれ変わった。
更に昭和五十二年 真人(まっと)・上坪野地区編入が相継ぎ両地区約六十八ヘクタールの圃場が整備されここに小千谷市南部農業基盤整備の拠点が確立された (以下略)
山本山を訪れれば必ず目にする発電所や調整池。ここの水田にも国鉄は関わっていたんだなぁ。
碑の周りは蕎麦の花も満開。
小千谷や十日町は蕎麦処としても名高い。
そば畑の向こうには上、下権現堂山。その奥に毛猛山塊。ずっと左に浅草岳。
北側には山本山が間近に。そこで気づいた。いつも山本山山頂から見ていた美田はここだったか。
霊峰八海山は霞んでいた。ちょうどこの辺りが、きょうの天気の変わり目のようだ。
前置きが長くなった。再び信号機のない県道49号線を疾走すれば、あっという間に十日町市。
続く。
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