フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

昔話の「見るなという禁止」

2010年11月23日 22時08分29秒 | 社会・政治・思想哲学

 日本の昔話に繰り返しあらわれるテーマに、「見てはいけない」という禁止がある。
 例えば、鶴の恩返し、雪女などが有名である。そして、昔話において、その禁止は破られるために語られる。多くの場合、見てはいけないと禁止するのは女性=妻で破るのは男=夫であり、見られると女は男から去っていってしまう。

 昔話は、民族的無意識である。なぜなら、様々な昔語が語られるわけであるが、現代にまで残っているものは、人々が長い時間をかけて変化をつけて作り上げたり、また選び取ってきたものであり、民衆の生活の感情や感想が染み込んでいるものだといえるからである。とすると、見るなとの禁止とそれを破るということには何らかの意味があるに違いない。


 
山のふもとの集落にいくとよく分かるが、人間の住んでいる世界と自然=動物のすんでいる世界には、歴然として境界線がある。

 この間、鷹ノ巣山に登ったが、登山口に看板があり、それは「11月6日にこの付近に熊が出た」との注意であった。この看板が私たち人間に、これから入る山は動物の世界なのだ、と知らせているようであった。
 暗黙の了解として、熊は人間の世界には入ってはいけない動物であり、逆に熊のいるような深い森には人間は立ち入ってはいけないとの、決まりがあるのだろう。
 異類婚は、まさしく自然(動物)と人間の交差する場面を象徴しているように思える。
日本の異類婚の昔話は、自然界と人間界の境界線の話だといえそうである。動物だと分からないうちは、そのままでもいいが、自然界の動物であることが分かった時点で追放されるもしくは去って行ってしまう。
 交わることはゆるされないのである。

 

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シャーマニズムと憑依現象

2010年11月23日 00時26分20秒 | 社会・政治・思想哲学

 私の興味を引く面白いニュースがあった。少し引用する。

先日、カリブ海の国トリニダード・トバゴにある学校で、女子生徒17人の意識が突然混濁した状態に陥るという不可解な事件が起きた。生徒たちは意味不明の言葉を発すると共に異常に力が強くなり、学校側は教会から神父を呼んでお祓いをした上で病院へ搬送。幸い身体的に深刻な状態の生徒はいなかったようだが、その様子を目の当たりにしたほかの生徒の間では「悪魔が憑依した」と囁かれているという。  

 集団でこのような状態になることが、頻繁に起るかどうかはよくわからないが、精霊が憑依するといったことは、日本ではよく起る。
 巫女は自分の身体に精霊を導き入れることができるといわれている。恐山のイタコもその一種である。

 
 柳田国男の「妹の力」も同じような現象である。
 「妹の力」とは、、古代日本における、女性の霊力に関する一種の呪術的な信仰。
 「妹」は生物学上・社会学上の定義における妹ではなく、母、姉、妹、伯母などの同族の女性、妻、側室、恋人など近しい間柄の女性に対する呼称を指す。

 
 柳田国男は岩手県の山村で、裕福な旧家の六人兄妹が一時的に発狂した事件を書き記している。

 発病の当時、末の妹が13歳で、他の5人はともにその兄であった。不思議なことには6人の狂者は心が一つで、しかも13の妹がその首脳であった。たとえば、向こうから来る旅人を、妹が鬼だというと、兄たちの眼にもすぐに鬼に見えた。打ち殺してしまおうと妹が一言いうと、5人で飛び出していって打ち揃って攻撃した。屈強な若者がこんな無法なことをするために、一時はこの川筋には人通りが絶えてしまったという話である。 

 日本のような母型社会では、無意識的に女性が男を操るということが起りうる。それを霊力というかどうかは別として、男性が女性から何かしらのエネルギーを与えられるただ、どの女性でもそのような力があるかというとそうではなく、やはりある種の特殊な能力が必要である。
 
 このように現実の世界から妄想・空想の仮想世界に転換させる何かが実際にあることは確かである。霊がいるかいないかは別として。
 それが科学的に脳の機能から説明できるようになる日がくるだろう。 

 

 

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