「神々の山嶺」をさっき読み終わった。昨日の夜、そのまま読み続けたら徹夜で読み続けてしまう勢いだったので、無理に読むのを止めなければならなかった。それくらい緊迫感があって読むのが止まらなくなる小説である。ちょっとすごい。ここ何年かに読んだ小説の中で文句なしに一番面白かった。
作者はあとがきでこう言っている。
直球。力いっぱい根限りのストレート。
もう、山の話は、二度と書けないだろう。
これが、最初で最後だ。
それだけのものを書いてしまったのである。
これだけの山岳小説は、もう、おそらく出ないであろう。
それに、誰でも書けるというものでもない。
どうだ、まいったか。
これだけ読むと、何だ自慢かと思ってしまうが、この小説を読み終わってからだと、「その通りです。参りました」と思わず言ってしまう。それくらいすごい小説である。
超簡単にあらすじを言えば、主人公の羽生丈二が前人未到のエベレスト南西壁冬季無酸素単独登頂をする物語である。視点は三人称であるが、実質的には写真家・深町の視点で物語が進む。上巻はミステリータッチで、下巻は緊迫したエベレスト登頂が迫力のあるリアルな描写で描かれている。自分が実際に登っているような錯覚をしてしまうくらいの圧倒的な筆力で、知らないうちに心臓がバクバクと鼓動している。
もちろん、小説に出てくるようなすごい経験をしたことはないが、それでも最近山登りしているから、多少なりとも山の危険や辛さを知っている。運動が嫌いな人にとっては、山に登るなんて信じられないだろう。もし山登りしない人に、生命の危険が伴うのに「どうして、山に登るの?」と聞かれれば、「楽しいから」くらいしか言えない。だけど、それだって正確な答えではない。そもそも簡単には答えられない。「どうして生きているの?」とたいして変わらない問いだからだ。その問いにきちんとした答えはない。
スピノザはこう言っている。
「われわれをしてあることをなさしめる目的なるものを、私は衝動と解する」と。
普通、私たちはある目的があってそれを達成するよう努力していると考えている。だから、「どうしてそういう目的を掲げたの?」と問うことになる。しかし、スピノザはそう考えない。まず、衝動があるのだと。その訳のわからない衝動が私たちに訳のわからない行動をさせているのだと。だから本来「なんのために」という問いは成り立たず、それに答えはない。
衝動、つまり身体からほとばしる生命力が、ただ行動を渇望しているだけなのだ。
強烈な生命は、それが脅かされるような極限の世界を求める。死が近づけば近づくほど、生の輪郭が浮かび上がってくるからだ。極限の世界はジリジリと生を焼き焦がすが、死を乗り越えようとする強い力は、簡単なハードルでは物足りないのである。
最近、すこし元気が無いなぁという人に、この本をお薦めする。たとえ山に興味が無いとしても、山岳小説を超えて、普遍的な意味での生きる力を与えてくれる小説だからだ。また、サスペンスやミステリー的な要素も取り入れられており、グイグイと物語に引きずり込まれてしまうから、そういう面白さを求めている人にもいい。