元オウム真理教の菊地直子が逮捕された。
彼女についてはそれほど興味があるわけではない。しかし、逮捕のニュースを聞いて、多少衝撃を受けたことは確かだ。
彼女には、きちんとした仕事があった。かつ恋人もいた。もし、指名手配されていなかったら、幸せな人生を送っていたに違いない。
いつ捕まるか分からない不安な状態では、ほんとうの意味での幸せは味わえなかっただろう。
愛する人とも結婚できない制限された自由。
私には、とくに制限はないから、なんでもできる。
ただ、この自由を普段意識することはない。
私たちの問題はそこにあるのだろうと思う。いつでもなんでもやれるから、今はやらない。
もし、自由に制限が課されていたら、その中で自由を味わおうとする。
菊地直子に興味があるわけではないといったのは、彼女のことを詳しく掘り下げても、オウムの本質的な問題が見えてこないからである。
菊池直子よりも、ブラック企業のやり方を研究したほうが、オウムの問題に近づける。
オウムの問題は、私たちとは関係ない外側にある問題ではなく、私たちの社会のなかにに内在している問題である。
それは、私たちが考え続けなければならないことである。終わりはない。
彼女について言えば、彼女自身の罪を償って、自分の人生をやり直せばいい。
私が興味を持っているのは、運命に翻弄された奇異な人生のなかにも、幸せはありうるのか、といったことである。
それを提示することが、まさしく宗教の役割だろう。
その意味で、彼女の歩んだ人生は宗教的だったのかもしれない。皮肉なことに。