内田樹氏の「死と身体」に、ノンフィクション「心臓に貫かれて」を引用しているところがあった。
「心臓を貫かれて」はアメリカの死刑廃止の流れを変えた犯罪者であるマイケル・ギルモアの生涯を描いたものだ。著者は弟であるマイケル・ギルモア。
興味深いので引用する。
ゲイリーは一つの教訓を与えてくれた。(略)「物事をただ受け入れ、感覚を消すことを覚えなくてはならない。苦痛も怒りも、何も感じちゃいけない。いいか、もし誰かがお前のことをぶちのめそうとしたら、じっと我慢していなくちゃならないんだ。抵抗しても無駄だ。そのまま黙って殴られて、黙って蹴飛ばされているんだ。好きなだけやらせろ。それが生きるためのただ一つの方法だ」
このように抵抗せずにじっと我慢していることを「感覚遮断」という。私だったら、死を覚悟しても、最大限の抵抗をすると思う。少なくとも感覚遮断という方法はとらない。生きるより、戦う死を選ぶ。
タトゥーとかピアスはどんなにうまくやっても痛みが伴うから、ゲイリーのいう感覚を消すことを覚えなくてはならない。
感覚遮断は心と身体を分けて考えることである。
援助交際をしている女の子に「男から金を取るのはなぜか」という質問をしたところ「金を払っていない間は、私はあなたのものではないよ」ということをはっきりさせるためだと答えたという。
ここで問題となるのは、彼女が自由にさせているものは何かということだ。
彼女が切り売りしているのは彼女自身ではなく、彼女の「身体」である。彼女はそう思っている。
彼女は自分の身体を自分の所有物として扱っている。だから時間貸しができるのである。もちろん、その場合、好きでもない男に体を許すのであるから、感覚を遮断しているのはいうまでもない。
特にお金を稼ぐ能力もなく、誰からも十分な敬意も払われず、何かを掴み取っているという感覚のない人間にも、当然、プライドがある。
そのような人間であっても、自分が支配できるようなものが必要である。好き勝手にいじくりまわし、損なってみせることで、自分にも支配できるものがあるということを確認し、心理的に優位にたちたいと思う。
小動物をいじめたり殺したりすることや、差別されている人間がもっとひどく差別されている人を差別することは、相手を支配下に置くことの一種だ。
また、そのようなことをする勇気のない人間でも、自分の身体なら、傷つけることも可能である。
リストカットなどもその支配の一つだろう。どんなに貧しくても、低い身分でも自分の身体だけは自分で支配して、それを傷つけ、いたぶることができる。誰からも尊敬されず、誰からも保護されない無防備で貧しい人間にとって、最後に残された「いくら乱暴に扱ってもいいリソース」は自分の身体である。
内田氏は「自分の身体に敬意を払うこと」をうったえている。
つまり自分の身体が今何を欲しているか、そのメッセージをていねいに聴くということである。
身体感覚を遮断するのではなく、身体の欲していることを感じること。
本当に好きな人だったら、手がすこし触れただけで、その接触が心に何らかの影響を及ぼすだろう。
その微妙な感覚を、意識すること。それは感覚を遮断するのとは反対のことである。