コナトゥスは、ラテン語で哲学用語の1つである。スピノザ哲学では、かなり重要な言葉である。コナトゥスとは、自己の存在に固執しようとする努力をいう。もうすこし噛み砕いて言えば、自己肯定のエネルギーである。
まず、スピノザのエチカから正確な言葉を引用してみよう。読み飛ばしてもらっても構わない。
「どのようなものでも、それ自身にとどまる限り、自己の存在に固執しようと努力する」(エチカ第3部定理6)
「 あらゆるものが自分の存在に固執しようとする努力は、そのものの現実的本質にほかならない」(エチカ第3部定理7)
「この努力は、ただ精神にかかわることによって、意志と呼ばれる。しかし精神と身体に同時に関係するとき、衝動と呼ばれる。その結果、衝動とは人間の本質そのものにほかならなず、その本性から自己の維持に役立つような多くのことが必然に導かれる。このことから人間は、その本性から導かれたものをなすべく制約されることになる。
次に、衝動と欲望のあいだには、もっぱら欲望が自分の衝動を意識している人に関してのみ妥当する点を除けば、両者を区別するものは何もない。このようなことから、次の定義づけが可能になる。すなわち、欲望とはみずからの衝動を意識している衝動である、と。
そこで以上のことを総括してみると、われわれは、どのような場合にも、ものを善と判断するから、そのものへ努力し、意欲しあるいは衝動を感じあるいは欲求するのではない。むしろ反対に、あるものを善と判断するのは、そもそもわれわれがそれに向かって努力し、意欲し、衝動を感じあるいは欲求するからである」(エチカ第3部定理9注解)
エチカは何を言っているのかイマイチ分かりづらい。誤読を覚悟でうーんとわかりやすくしてみる。
あらゆるものは、自己を肯定するよう努力する。その自己肯定の努力は、そのものの本質である。この自己肯定の努力は、精神と身体に同時に関係する時は、衝動と呼ばれる。つまり、衝動とは、自己肯定のエネルギーである。
私たちは、ある行為が善であると判断してからそれになろうと欲するのではなく、むしろ反対に、先に衝動や欲求を感じるから、その行為を善と判断するのである。つまり、自己を肯定するエネルギーを感じることが善なのである。
スピノザはこの圧倒的な自己肯定のエネルギーを哲学の中核に置く。個人的にはこの点が一番すごいと思うのだが、レヴィナスなどには、あまりに利己的ではないかと批判される。
しかし、わたしは自己の存在に固執しようとする努力を、単なる利己的で長生きに執着するエネルギーだとは思わない。自分のすべてを投げ出し、愛する者を守ろうとすることも、それが自己を肯定し、自分(精神)の存在を維持することになるのなら、それに含まれると思っている。 それが自己肯定の意志だからである。
物語も人生もパラレルである。この自己肯定のエネルギーが感じられない物語も人生も、そのものの本質から外れている。
ちょっとスピノザ哲学の解説になってしまったが、次回のブログも物語論でいこうと思う。まだまだ続く。